第14話 不安という名の怪物

 この夜、酒の強い筈の李仁が珍しく酩酊していた。楽しい酒では無かったからか余計に酔いが回っていた。

智也に愚痴を溢すでも無く、智也も詮索をせず、男二人でひたすら酒を煽った。若女将に頼んだタクシーが店の前に付けられると、足元の危うい李仁を抱えて智也が外へと出てきた。


「それじゃあ若女将、李仁はきっちり俺が送り届けるからな、心配はいらんぞ?」


「トモちゃんもリー君も気をつけて、有難うございました。たまには顔見せに来て下さいね」


 若女将とは二人とも子供の頃から見知った仲である。つい、若女将の口から親しげに、小さい頃の愛称がポロリと出て来る。


「そんな風に呼んでくれるのは、もう風夏さんだけだ。また来る、また来る」


 智也に肩を借りていた李人がタクシーに乗り込みながら、ヒラヒラと手を振った。後部座席にがたいの良い男二人がギシギシ乗り込むと、タクシーは李仁のマンションへと向かった。


「お前、大丈夫か、いつもはもっと呑めてただろう」


「智也、認める、オレ達はもうおっさんだ…子供の頃は良かったな、単純に出来てた。それで良かった」


「なーにを、おっさんぶって」


 後部座席に気怠く背もたれながら、何処か遠い眼差しで暗い車窓を見つめている李仁に智也は複雑な思いを抱いた。


こんな酔い方をするような男では無かった。


 マンションに到着すると、大丈夫だと言う割には危なっかしい李仁に智也は肩を貸して付き添った。ドアが内側から開くと、そこには心配そうに立っていた棗が飛び出してきた。


「李仁さん?!大丈夫ですか?随分酔っ払ったんですね、智也さんわざわざありがとうございます」


 そう言うと棗は、今度は智也の代わりに李仁を支えようと腕を伸ばした。


「いや、俺が寝床まで運ぶ。こいつ重いから」


「えっ?、あ、あのっ、良いです。私が運びますからっ」


「棗、ただいま〜」


 ここでもまたヒラヒラ棗に手を振る李仁を抱えて、智也は勝手知ったると言う様子で、ズンズンと部屋へと入って行く。棗が慌てて二人を追いかけた。ベッドルームは何処だとも聞かずに李仁を運び込むと、取り敢えずベッドへと李仁を寝かせた。


「あのっ、すみませんでした。李仁さんがご迷惑を…」


「こんなの迷惑なんかじゃ無い」


 初めて会った時とは明らかに違うよそよそしく冷たい智也の態度が棗は気にかかった。李仁を送り届けると、さっさと智也は玄関へと出ていた。


「今夜は呑ませて悪かったな」


「こちらこそ、送っていただいてありがとうございます」


 智也を玄関先に見送りに出た棗は、若妻の様に恭しく智也に頭を下げた。だが顔を上げ、閉まり行く扉の向こうに、何処か殺気立った様子で棗を睨んている智也の顔があった。


「お前、李仁を玩具にしたら許さねえからな」


 脅しとも取れる言葉を最後に残して扉は閉まった。


「な、なに?…今の」


 棗の中に得体の知れない不愉快さだけが残った。そして去り際の智也の言葉がジワジワとボディブロウの様に効いて来ると、玄関に立ち尽くしていた棗は怒りに目眩すら覚え、壁で自身の身体を支えた。


「何?あれ…!どう言うこと?私と李仁さんの事なんて知りもしないくせに!」


 怒りだけでは無かった。智也から、自分と同じ臭いを嗅ぎ取った気がした。そう思うと、怒りよりも更に赤黒くただれた感情が心の底を炙るのを感じた。


「酷い、李仁さん。私が一番貴方の事が好きなのに…!」




 李仁が、次に目覚めたのは己のベッドの中だった。どうやって脱いだのか、下着一枚で毛布の中に包まっている。そして胸の上では緋色の襦袢姿の棗が李仁の胸板を指で悪戯しながら、上目遣いで李仁を見つめていた。


「酷いです。貴方を一番好きなのは私なのに」


「…棗、どうやってここに戻ったのか覚えていないんだが…、オレは何か変なことを言っていたのか?もしそうなら、謝る。何だか今日は強か酔った」


「あの方、智也さんが、ベッドに運んでくださったんですよ?貴方のベッドが何処にあるかちゃんとご存知でした」


「そりゃあ、友達だからな。ここで酒盛りした事もある」


「智也さん、貴方をお好きなんじゃないですか?」


 思わぬ棗の言葉を李仁ははなから笑い飛ばした。


「馬鹿を言え、あいつとはそんな関係ではないよ。幼なじみの腐れ縁で…、っ!」


 胸板に小さな痛みが走った。見下ろすと棗が可愛く歯を立てて、李仁を睨んでいた。


「貴方はそうでも、智也さんはどう思っているやら」


 拗ねている棗が、李仁の股間を下着の上から膝頭で刺激した。


「…っ!」


「証明してください。お前が一番好きだって、私に分らせて下さい」


 棗の誘う唇が李仁の唇にねっとりと重なり、舌を絡め合い、二人は部屋いっぱいに淫靡な音を響かせ貪りあった。


「棗…、お前が考えている以上にオレは君を思ってる。この胸を切り開いて見せてやりたいくらいだ。こんなにも愛した人は他にはいない!智也とお前とでは好きと言う意味が全然違うんだ、そんな事はお前にも分かるだろう?」


 そんな言葉は今の棗には慰めにもならなかった。


「なら、私と智也さんのどちらかの命を助けるとしたら、貴方はどっちを選びますか?」


「そんな…、そんな答えなど、」


 嘘でも棗だと答える器用さなど、生真面目な李仁は待ち合わせてなど居なかった。言葉に詰まる李仁に悔し紛れの棗の爪先が、器用に李仁の下着を引き摺り下ろした。李仁の熱い猛りがぶるりと現れ、それを目の当たりにした棗の中で情欲と愛と嫉妬とが激しくせめぎ合っていた。


「嗚呼っ、李仁さん!私を貴方の好きにして下さい!お願いです、私を縛って、めちゃめちゃにして!愛していると私の軀に刻み付けて下さい!貴方になら何をされても構わない!誰にも出来ない事を私がさせてあげます!」


 去り際の智也の敵意の篭った眼差しに、棗は今まで感じたことのない焦燥感に駆られていた。智也が本気になれば、李仁を奪われるかも知れない。親友なんて、薄い皮で隔てられているようなものだ。一皮捲ればどうなるかなんて分からない。

 愛と言う名を以ってしても、二人が培ってきた時間も育んできたものも、智也には到底敵わない。不安と言う名の怪物に、棗は今にも飲み込まれそうだった。

こうして李仁に全てを投げ出すことでしか、自分は李仁を繋ぎ止められない。そんな自分を哀れだと思うほど、身も心も燃え滾った。

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