第16話 秘密

 薄く開いたドアにねじ込むようにしてはる君が、部屋へと入って来た。手には大きなキャリーケースが引きずられ、中に入るなりいきなり棗の顎を捉えて唇を寄せて来た。棗は咄嗟にそれを強く跳ね除けると、はる君は床へと転がった。その風態はすさんだ生活が滲み出ているようだった。


「久しぶりの挨拶がコレとは寂しいものだな」


 はる君は床に座り込んだまま、横倒しになったキャリーケースを大事そうに腕に抱え込んだ。


「それをこっちに渡してください」


 久しぶりの元彼への挨拶もなく、棗は殺気立った様子でキャリーケースへと手を伸ばしたが、その手を今度ははる君が払い退けた。


「ダメだ。約束が先だ」


「なら、見せてください!ちゃんとあるかどうか」


 はる君は立ち上がると棗より遥かに背が高い。そんな相手を棗は疑い深く睨んでいた。

 はる君がキャリーケースをベッドの上へと乗せる。感情を露わにしている棗の様子を愉しむように、焦らす手つきでゆっくり蓋を開け始めた。蓋の隙間から、棗の身体と同じ白檀が薫って来る。棗はそれと対峙するように、白む唇を噛み締め、覚悟を決めたように拳を固く握りしめた。

 そして全て蓋が開けられた。そこに現れたのは目を疑うような物だった。人間の死骸だ。それは膝を抱えて蹲っていた。

いや、よく見ればそれは死骸では無い。棗そっくりに作られた生き人形なのだ。

 白磁の肌はあたかも本物の人間の肌のように柔らかさを感じ、その表面には薄青く血脈すら見える。華奢な身体に纏った肉の下からは、隠された肋骨までもがリアルに表皮に浮き立っていた。顔は棗そのものだったが、見開かれたまなこは空虚を見つめ、辛うじてそれが人形であることが分かる程だ。

 巧妙で緻密に作られた棗に生写しの球体関節人形。それは、はる君の工房に飾られていた人形達とは一線を画す、おぞましいまでに美しい人形だった。久しぶりに、棗は『棗』と対面した。それを見つめる棗の眼差しは、嫌悪と憐憫れんびんが入り混じった複雑な色を放っていた。


「どうだ、相変わらず美しいだろう」


 そう言って、人形を撫でるはる君の、節くれだった細い指にすら、虫唾が走る思いだった。


「まだこんなもので遊んでるんですか貴方は!筋金入りの変態ですね!」


 棗は侮蔑の眼差しで吐き捨てた。


「それは、褒め言葉かい?

お前だって、そんな私に散々抱かれていたのだろう?」


 その言葉に棗は心底ゾッとした。


「やめて下さい!もう私は貴方のものじゃないんです。この人形が私の知らない所で玩具にされていると思うと虫唾が走る!これは私がきっちり処分します!」


 人はいつ、愛が憎悪や嫌悪にすり替わるのだろう。もし、これが李仁ならばきっと許せる。そうやって、過去の自分もこの男に喜んで全てを許し、投げ出して来たと言うのに、今はおぞましさしか感じない。それは棗の身勝手な感情だと言われて仕舞えばそれまでだ。

 さっさと、ケースの蓋を閉めて持ち去ろうとしている棗の腕を、はる君が捻り上げた。


「処分?処分とは何だ!私が手塩にかけてどれだけの魂を注ぎ込んで造ったか。約束はまだ果たされていないぞ。小狡こずるい狐め!」


 はる君の大きな手が襲い掛かり、棗の首を絞めながらベッドへと押し倒した。


「ッ!!かは…ッ!」


 がっしりと食い込む手を引き剥がそうと、必死に棗は首を絞めているその手に、か細い爪を突き立ててもがいた。頸動脈が圧迫されて耳鳴りがする。柔らかな舌骨がしなって折れてしまいそうな恐怖が襲う。棗は酸欠になって意識が次第に朦朧とし始めた。

 暴れていた手足からは力が抜けて棗はぐったりとなり、薄れて行く意識の外側で、はる君のなすがままに着物が乱暴にはぎ取られて行くのをぼんやりと感じていた。そこから先は墜ちるように棗は意識を失っていた。


 棗がようやく意識を取り戻した時、棗はホテルのベッドにまるで打ち捨てられたように全裸で転がっていた。着て来た着物や帯はクシャクシャに丸まって床に落とされ、のろのろと身を起こすと、秘部からは、はる君の残滓が滲み出た。そして部屋からは、はる君も人形も消え失せていた。


やられた!はる君にしてやられた!


 激しい苛立ちと自分への不甲斐なさに棗は枕をドアへと投げつけた。腹わたを抉られるような思いに身を震わせながら、棗はベッドに顔を埋め、両の拳を叩きつけながら呻き泣いていた。



 次の日の夕方、李仁が金沢から帰宅した。手には棗への菓子の手土産と、あの加賀友禅の反物が大事そうに抱えられていた。


「ただいま、棗。今帰ったよ」


 何も知らない李仁の声は、三日ぶりに愛しい棗に会える喜びに満ちていた。その声を聞いた途端に棗が部屋の中から飛び出して来た。不覚にも泣きはらした目で李仁に飛び込むように抱きついた。


「李仁さんっ!お帰りなさい。

会いたかったです。凄く会いたかった!」


 その言葉に何の偽りもなかった。しかしもっと深い感情の渦に苛まれて棗は心身共に疲れ切っていた。そんな時に聞いた李仁の声が、どれほど心暖かく愛しいものかと、涙の出るような思いだった。昨日流した涙とはこれほど程遠いものはないと、棗は感じていた。


「どうした棗。泣くほど寂しかったのか?オレも死ぬほど君に会いたかった」


 己を思って泣いていたのかと、赤い目をした棗を覗き込むと愛しさが込み上げて来る。李仁は土産と棗の両方を、もう一度ただいまと言って抱え上げた。その首に棗が細い腕を巻きつけてしがみつき、李仁の頬に何度も自分の頬を懐かせた。


「抱いて下さい。うんと甘く。貴方に蕩けてしまいたい。私をいっぱい愛して、李仁さん。貴方が好きで好きでたまらない」

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