第5話 帰したくない

 本当なら、今頃イタリアンに舌つづみのはずだったが、落ち着いたカクテルバーのカウンターに二人並んで座っていた。

 さっきから棗はずっと黙り込み、チェリーの沈んだカクテルグラスに視線を落としたままだった。

 このままずっと黙っているわけにもいかない。無難な会話をしてみる事にした。


「少しは落ち着いた?」


「本当にごめんなさい。楽しい食事のはずが…こんな、」


 照明の落ち着いたバーに、静かなジャズが流れている。客は棗と李仁の二人だけ。バーテンは客の話が聞こえないふりで手元のグラスを磨いている。


「オレの事は本当に気にしなくて良いんだ。話したくないなら無理に聞こうとは思ってない。君が話したくなったら話せば良いから」


 良い男ぶるのも忍耐が必要だった。本当は何から何まで聞きたい。何があったのか、どうしたのか。それは彼氏の事と関係があるのかと。




「……別れて、来たんです」


 棗は自分から切り出した。


「別れて?…あのはる君とかい?!

まさかオレの事が原因じゃ…」

「いえ、違います。

と、言いたいのですが、少しはあるのかもしれません」

「やっぱり今夜の食事会はよく無かったんじゃないのか?直接説明に行こうか。誤解で別れ話なんて責任を感じる」


 はる君を、確かに邪魔に思ったのは否めないが、こんな結末を期待した訳ではない。

 当然、棗が苦しむのは本意ではなく、食事会に浮かれていた自分を李仁は悔いていた。


「はる君と離婚だなんて、修復は不可能なのかい?」


「・・・離婚?」


棗は少し不思議そうな顔をして、すぐにかぶりをふった。


「……はる君とは恋人だった、のかな。何だか今となってはそれも分かりませんが…」

「そうか、てっきり君とはる君は夫婦なのかと思っていた」

「…………」


 棗の唇が何か言いたそうに小さく動き、その瞳は何かを逡巡しゅんじゅんしているように小刻みに震えて見えた。


「はる君は人形作家で、最初はそのモデルを頼まれたんです。

そのうちに一緒に暮すようになって…。最初は楽しかったけど、段々とはる君の束縛が凄く強くなって。一人で外出するのも難しくなってしまって…。最近はずっと喧嘩が絶えなかったんです。

私、もう疲れてしまって」


 心なしか肩ががくりと落ち、目元に影が差しているように見えた。

 人間は表向きなんて本当に分からない。あの何時も明るい棗に、こんな暗闇が潜んでいたなどとは少しも感じた事がなかった。


「それだけ彼は…君を愛しているんだね」

「そうなのかもしれません。でも…………苦しい」


 棗の気持ちも『はる君』の気持ちもどちらも少しずつ分かるような気がした。

 別れと言うのはこんな風に、静かに忍び寄って来て、ある日バッサリ鎌が振り下ろされるものなのか。

自然にしぼんんで行く関係しか結んだ事の無い李仁には、こんな激しい恋はドラマや映画の中だけの世界だった。息苦しいほどの恋をしてみたいと、李仁は思った。


 その後は棗の緊張も解け、何杯か二人でカクテルを空け、ちょっとしたつまみを頼んで空腹を満たした。

 話してみると、棗は若いが物知りで、二人とも興味のある事、好きな物がとても似ている事に気がついた。

 棗は女性脳と男性脳の持ち主らしく、女性なら食いつかないような話題にもすんなりと絡んで来る。李仁は居心地の良さを感じていた。男友達と話している様な気分になりながらも、極上の女性と一緒にいる様な気分。棗と言う人間は、その両方を満たしてくれるような気がした。


 バーテンにラストオーダーを告げられるまで、時間など気にも留めていなかった。会話が弾んだまま、名残惜しげに棗はカクテルのチェリーを口に含んだ。


「楽しかったですね。時間があっと言う間。この続き、また絶対にしましょう?」


 そう笑顔で言いながら、背の高いスツールから棗が降りようとした瞬間、その足元がぐらりとふらついた。


「あ…っ!」


「おっと!」


 李仁が慌ててそれを支えた。腰を引き寄せられた棗の身体が少し強張る。図らずもその瞬間、二人の視線がかち合った。見つめ合う二人の瞳が揺れている事に、互いが気づいてしまったのだ。


「…約束の証に…そのチェリーを」


 李仁は酔っていたが、自分が何を言ったのかはっきり分かっていた。薄く開いた棗の唇からあの赤いチェリーが、誘うように覗いていた。


「ぁ…、ンだめ…っ」


 唇に迫ろうとする李仁の胸を、力無く棗の手が止めながら、その求めに応じて目を閉じた。

 棗の舌で押し出されたチェリーは吐息と共に李仁の口内へと滑り込み、甘い唾液がまるで媚薬のように李仁の身体を熱くした。


「…君を…帰したくない…」


 押し殺すような李仁の囁きが、棗の空虚を抱えた胸の隙間に忍び込んだ。抱き寄せられた李仁の身体は逞しい「男」の身体をしていた。


 午前一時。外は土砂降りになっていた。

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