第6話 好きの定義

 それはまるで外国映画のワンシーンだった。雨に濡れるのも構わず、爆発しそうな欲情を内包しながら、どうやってホテルのこの部屋までやって来たのか覚えがない。


 ホテルのドアを入って来るなり、縺れ合うように抱き合いながら、夢中で獣じみた口付けを交わし合った。

 壁に棗を縫いとめ、李仁の大きな手が荒々しく棗の着物の裾を暴きたて、素のままの腰や太腿を味わった。甘いため息混じりに棗の五指ごしが李仁の髪を掻き乱す。


重なり合う唇が、

絡み合う舌が、

火照った躰が、

興奮に染まって行く。

荒い吐息。

脱ぎ散らかした衣服。

熱気に曇る窓。

今、二人に言葉は必要ない。


 棗をベッドに組み敷いて、襦袢の裾を李仁の膝が割り開く。乳白色の滑らかな首筋に口付けながら、李人の手が肌けた胸元へと忍び込む。

 柔らかな腹を遡り、悪戯な指先がその胸へと這い上った時、その違和感に李仁の動きが止まった。柔らかい筈の棗の胸に、女性らしさが感じられ無いのだ。その代わりに、股座またぐらに差し入れた李仁の膝に、熱く滾る印を覚えた。

 当惑の表情を露わに棗を見下ろすと、『秘密が暴かれた』そんな目をして棗の眼差しが李仁を心細く見上げていた。

 その瞳はまだ欲濡れた色を宿していたが、ゆっくりとその炎が消えて行くのが李仁にも分かった。

 そして、その棗の眼差しが、動かし難い事実を李仁に突き付けていた。


「君は…、君は…男…なのか?」


 李仁の頭が激しく混乱をきたしていた。目の前のこの事実が、直ぐに受け入れられる訳がない。


 沈黙しか無かった。熱く満潮を迎えたうしおが音も立てずに引いていく。昂っていた頭と身体が、まるでブレーカーが落ちたような状態に陥っていた。

 棗は乱れた襦袢を胸元にかき集め、膝を抱えてベッドの隅にうずくまった。


「嘘はついてません。

貴方は私に女か男か問わなかった」


 怯えの中にも毅然とした瞳が真っ直ぐに李仁を見つめていた。

そうだ。その通りだった。

思い起こせばその顔立ちゆえに、化粧をした顔を見た事がなかった。少年のようなスレンダーな体つきもモデルにはありがちと思って疑問すら湧かなかった。

美しさは女性だけの特権では無いのだ。返す言葉も見つからない。


「すまない、オレが勘違いをした」


「なぜ謝るんですか、女じゃ無ければ私を好きになれませんか、好きと言う以外他に何が必要ですか?」


 胸を掴まれるような言葉だった。だが今の李仁には何一つ答える事ができない。ただ項垂れて突っ立っているのか精一杯だった。


「やっぱり貴方も…無理な人だった」


 棗の瞳が酷く悲しげに揺らいでいた。


「ご迷惑おかけました、本当に、本当にごめんなさい!」


 棗は震える手で床に散らばる着物や帯を拾い集めると、着付けもせずにホテルの部屋から逃げ失せた。

床に一つだけ小さな珊瑚の帯留を残して。


「…オレはどうしたら良かったんだ」


 棗を追いかける事も出来なかった今の自分が酷く情け無い。

 帯留を拾い上げてその手に握り締めると、棗に投げられた言葉が脳裏に繰り返し蘇る。



『好きと言う以外、他に何が必要ですか?』




 あれからパタリと棗の気配が李仁の周りから消えた。まるでそんな人間は最初から存在しない様に味気ない日常が過ぎていく。


オレは女だと思ったから欲しかったのか?棗の何に欲情したんだ?


 確かに最初は棗の足に見惚れた。美しい顔や佇まいにも惹かれた。

でも、抱きたいと思ったのは何時だ?

話が弾み、思いがけず目が合った。

その時惹かれていたのは「女」では無く「棗」そのものではなかったか。


 縁がなかったのだと思い、こんな想いもいつか消え失せていくと思っていたのに、淡々と仕事をこなしながらも、ずっと棗のことばかりを考えていた。



「…仁」


「李仁!」


 店の入っているビルの屋上、手摺りに凭れながら、とろとろと落ちて行く夕日をぼんやりと眺めていると、突然李仁に呼び掛ける声がある。


「こんな所で何を黄昏てるんだ?何だか最近お前の様子がおかしいって従業員達が嘆いてた」


 振り向くと、悪友の佐倉智也さくらともやがコンビニの袋をぶら下げて、のんびりした足取りで李仁の元へと歩いてきた。


「なんだ、お前か。

この前はショーに来てくれてありがとな」


「なんだ?やっぱりお前変だぞ。礼なんて言われると、死期が近いのかと思うだろう?」


 いつものように軽口を叩きながら智也はコンビニの袋を李仁に差し出した。


「勝手に殺すなよ、オレは素直に礼も言えんのか。お、ビールか。まだ就業中だぞ」


そう言いながらも嬉しそうに、コンビニの袋から缶ビールを取り出し早速プルタブを引いていた。缶の尻を相手に傾けると、智也も缶を傾けて乾杯を交わした。


 久しぶりの発泡が喉を虐めて過ぎて行く。その感覚が心地良い。それだけで憂さが晴れる思いだ。


「そんな腐ってないで、デートでもしてスッキリしろよ。あの凄い美人はどうした。ほら、ナンパしてた」


「だから、ナンパじゃ無いって言ったろう。モデルを頼んだだけだ」


そう、それだけだ。


「そんなんじゃいつまで経っても嫁は来ないぞ」


「その言葉、そっくりお前に返してやる。お前だって嫁云々言える立場か!目糞鼻糞だ」


 学生時代から変わらない、こんなやり取りに李仁の心が和んだ。


「なあ、智也。お前、男を好きになったことあるか?」


 ぶっ!と智也がビールを吹いた。


「ま、まさかここで俺に愛の告白を」


「ちげーよ!!馬鹿か!

そうじゃなくて!恋愛感情と、ただの好きって、どう見分けりゃいい」


「はあ??お前はいくつだ?

悩むなら十年前に悩めよ!そりゃあ、お前、そいつにおっ勃つかおっ勃たないかだ」


 お下劣で単純だったが、正解だった。あれこれ考えるまでも無い。

 そんな単純な事すら見失うほど、李仁は冷静さを欠いていた。


 二十年以上の付き合いの中、智也はこんな質問を李仁から受けたのは初めてだった。李仁のこの動揺が、図らずも智也の心にも波紋を拡げていたのだった。

 

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