コヨーテ最後の生き残り

尾八原ジュージ

コヨーテ最後の生き残り

 俺の人生のターニングポイントは、あの血と硝煙とゲロとションベンの臭いがする夜だった。

 その時俺はまだ二十一歳で、こんなド田舎じゃなくて帝都に住んでいた。家業を継ぐのが嫌で、俺の父親みたいな田舎臭いオヤジになるのも嫌で、家を飛び出して単身帝都に出たのが十五歳のとき。なんだかんだあって粋がったガキんちょの俺が世話になり始めたのが、「コヨーテ」という便利屋のオヤジだった。

 都合六年、俺はコヨーテで働き、事務所の隅っこで飯を食って寝た。他にも何人か従業員がいたが、年が若くて頭が悪い俺は六年間ずっと一番下っ端扱いだった。メンバーは何回か入れ替わり、あの時にいたのは俺を入れて七人、ガラと頭の悪いのばかりが揃っていた。

 コヨーテは便利屋だから、何でもやるのが仕事だった。「絶対に開けるな」と言われた包みを(もちろん開けずに)届けたし、山奥にでっかい穴を掘る仕事もやった。まだピカピカの高そうな車を港まで運んでいって海に落としたこともあるし、とにかくやれと言われたことは何でもやった。

 帝都には素性の怪しい便利屋が腐るほどあったが、その中でコヨーテはそこそこ景気のいい方だった。うちには太い客がいたのだ。それがハガチ氏だった。表向きは映画配給会社の社長だとか、フカヒレの輸入をやっているとかいう話だったが、裏ではかなりの大物らしく、オヤジは時々彼を指して「オオムカデ」と呼んだ。なんでもオヤジとは同郷の出身で、たまたま酒場で出会って意気投合し、それから十年以上の付き合いだという。その人が仕事を回してくれるので、俺たちは金持ちではないにせよ、少なくとも食うには困らなかった。


 雲行きが怪しくなってきたのは、オヤジが相場にハマってからだ。オヤジに相場師のセンスがないのは火を見るより明らかだった。

 給料の支払いが遅れ始め、オヤジはいつもイライラしていて、煙草を親の仇のように吸っては灰皿で押しつぶしながら新聞を睨みつけるようになり、バカな俺でも塩梅がよくないのだということがさすがにわかった。ちょっとでもまともな頭のある奴はコヨーテを辞めてしまったが、俺はバカでだらしがなかったのでズルズルと居残っていた。

 その日は俺の二十一歳の誕生日の次の日だった。オヤジは興奮した面持ちでどこかから帰ってくると、事務所で溜まっていた俺たちの前で突然持っていたカバンを開け始めた。拳銃とマガジンが次から次へと出てくるのを見て、俺はギョッとした。

「お前ら、ムカデ退治だ。大金が入るぞ」

 オヤジが血走った眼をしてそう言った。要するにオヤジはどこかからハガチ氏の暗殺を請け負い、その道具を預かってきたのだ。

 俺は無理だと言った。さすがにそんなことはコヨーテの仕事じゃないと思ったのだ。オヤジは笑った。ゲラゲラ笑いながら俺の横っ面をいきなりぶん殴った。

「無理だってやるしかねぇんだ。俺は仕事を受けてきた。これはコヨーテの仕事だ」

 オヤジは俺に無理やりベレッタを一丁握らせた。同僚たちもゲラゲラ笑っていた。事務所の中にはいつの間にか酔っぱらったようなおかしな空気が立ち込めていた。

「なん、なんでうちがやる仕事なんですか」

 俺が半泣きで言うと、オヤジは答えた。「俺は大蜈蚣と付き合いが長いからな。あいつがゾロゾロ手下を連れずに会う相手ってのは滅多にいねえんだ」

 理由はそれだけだった。

 俺は銃を持ったことはあったが撃ったことはなかった。ベレッタは重かった。死にたくない、と思った。


 早くもその日の夜、会社のでっかいバンに乗って、俺たちは全員で「ホテル・ブリジット」に向かった。そこには客室以外にいくつも会議室や応接室のような部屋があって、その一室でオヤジはハガチ氏と会う約束をとりつけたらしかった。

「俺が『十年以上の付き合いじゃないか』と言ったら合図だ」

 オヤジは俺たちに何度もそう言い含めた。

 ハガチ氏はオヤジと同じくらいの年配の、マフィア映画に出てくる強面俳優のような男だ。体格がよく、見るからに高そうなスーツを着て、時々葉巻を吸った。鮫みたいな鋭い顔つきで、左頬から顎にかけて口を斜めに割るような傷跡があり、そのせいで唇が歪んでいるが、いい男の部類だった。

 十五、六歳くらいに見える面のいいのが一人、ハガチ氏の右側に控えているのもいつも通りだった。長い黒髪を後ろでひとつにくくり、男か女かわからないような顔をしているが、ハガチ氏は有名な美少年好きだからたぶん男だろう。秘書だか愛人だか知らないがこいつもよくやるぜと思っていると、そいつは俺の腫れあがった顔を見てニッと笑った。どことなく爬虫類みたいな、俺たちとは言葉が通じないような顔だった。

 豪華な調度品に囲まれた会議室で、俺たちはでっかいテーブルを囲んだ。といっても椅子に座っていたのはオヤジとハガチ氏だけで、俺たちコヨーテの従業員と、ハガチ氏の秘書だかなんだかわからない長髪は、それぞれお互いのボスの後ろに立っていた。

 オヤジたちがこのとき何の話をしていたのか、俺はさっぱり覚えていない。一張羅のジャケットの内側に仕込んだ銃が重かったことと、事務所でオヤジと同僚たちにどつき回されて顔と背中が痛かったこと、それにオヤジが妙にでかい声で笑っていたことしか記憶にない。

 様子を見るに、どうやらオヤジと同僚のうち何人かは、人に向けて銃を撃った経験がありそうだった。そうでなきゃこんな大それた仕事、いくら金がなくて切羽詰まったって引き受けてこないだろう。隠そうとしても妙な緊張感が部屋に満ち、オヤジはそれを打ち消そうとしてわざとでかい声で笑っているみたいだった。

 ハガチ氏は自分で葉巻を切って火を点け、紫煙を吐きながら低い声で丁寧にしゃべった。その間、長髪は黙ってその右後ろに立っていた。オヤジと同僚たちと俺の全部で八人。この八人が不意打ちで、揃って弾がなくなるまで銃を撃ち続けたら、あの二人は死ぬだろうか。いくらハガチ氏がマフィア映画のドンみたいな見た目でも、さすがに実弾が当たれば死ぬだろう。

 ハガチ氏も長髪も両手は空いていたが、武器を隠し持っているのかどうかはわからなかった。どこかに銃の一丁でも持っているのか? 強いのか? 俺たちは反撃されるだろうか? そうなりゃ誰か死ぬかもしれない。それは誰だ? 俺か?

 俺は生まれて初めて真剣に神様にお祈りした。嫌です死にたくないです死ぬの怖いです、と懸命に祈った。

「ところでコヨーテ」

 ハガチ氏が言って、咥えていた葉巻を灰皿に押し付けた。「何でまたこんなにゾロゾロ連れてきたんだ?」

「何人要り様かわからなかったんでね。手が多い方がいいだろうと思って」とオヤジは答えた。

「何だいハガチさん、そんな不審そうな顔をしてくれるなよ。俺とあんた、もう十年以上の付き合いじゃないか」

 いよいよ地獄の釜のフタが開いた。俺の横にいた同僚が背広の内側から銃を出した。俺も懐に手を突っ込んだ。その途端緊張と恐怖がピークに達し、ものすごい吐き気がこみ上げてきた。

「おえええええ」

 俺はその場に突っ伏してゲロを吐いた。頭の上で市街戦みたいな音がし始め、耳鳴りがした。

 昼間食ったものを洗いざらい高そうなカーペットの上に吐き出している間に、少しずつ音は小さくなっていったが、それは弾を撃ち切ったのか俺の耳がおかしくなっていたせいなのかよくわからず、熱に浮かされたような気分で顔を上げると、目の前に革靴の爪先があった。長髪がテーブルを踏んで俺の目の前に来ていたのだ。

 俺の横に立っていた同僚が「うわわわ」と壊れたみたいな声を上げながら二発撃ったが、当たらなかった。よくわからないうちにそいつの喉がケーキを切り取ったみたいに切れ、そこから派手に血が噴き出して俺に降り注いだ。

 それは不思議と滑稽な眺めだった。ははーんこりゃコメディだ。俺はコメディ映画を観ているんだな、なんて考えていたら、テーブルの上の長髪と目が合った。どこに隠していたのか、右手にコンバットナイフを持っていた。

 あ、死ぬ、と思った。たぶん砂漠のど真ん中で毒蛇と目が合ったらこんな気分になるだろうという気がした。

「ジュージ」

 ハガチ氏の声がして、長髪の動きがピタッと止まった。俺はそのとき初めてこいつにも名前があることを知ったが、それどころではなかった。声がしたということは、肝心のターゲットは生きのびているのだ。つまり俺たちのやったことはまったく意味のない犬死だったということだ。

 もう銃声はせず、代わりに部屋のどこかで唸り声がしていた。オヤジの声だ。それに気づいた俺の喉の奥から、タガの外れた笑いがこみ上げてきた。

「おい若いの」

 床に両手をついて笑っていた俺の前に、今度はハガチ氏のでっかい革靴の先があった。手に持ったナイフを拭く氏の後ろに、首をざっくり切られた別の同僚の死体が転がっていた。俺の胃の奥から新たな吐き気がこみ上げてきた。

「私は、裏切り者は新聞記者よりも嫌いでね」と、ハガチ氏は静かに話し始めた。

「だから今からお前のところの社長を拷問して色々聞かなきゃならないんだが、憂鬱なんだ。なにせ長い付き合いの友人だと思っていたから。確かお前も長いよな? 何度も世話になってるはずだ」

 俺は新たなゲロを我慢しながら、一所懸命何度もうなずいた。ここが俺の人生の分かれ道だと思った。ハガチ氏は人喰い鮫みたいな目付きで俺を見ていたが、

「若いの、ここから生きて帰れたらどうする?」

 突然そう尋ねてきた。俺の心臓が跳ね上がった。

「か、帰って寝ます」と俺は答えた。

「それだけか?」

「あっ、いやっ、帰って服脱いでシャワー浴びて服着てションベンして寝ます。それでそれで」

 ションベンは済んでますが、とテーブルの上で長髪が呟いた。その時初めて俺は自分の股間が生暖かいのに気づき、ああほんとだ済んじゃってるわと思って妙におかしくなった。

「そうか、じゃあそれでいい」とハガチ氏はうなずいた。「帰ってひとっ風呂浴びて着替えて寝て、今日あったことは誰にも言わずに、田舎に帰って静かに暮らせ」

 俺は耳を疑った。ハガチ氏は札入れを取り出すと、紙幣を何枚か俺のジャケットのポケットにねじ込み、代わりにベレッタを持っていった。

「どこだか知らないが、訛りがあるから故郷があるんだろう。他所に引っ込んで足を洗え。コヨーテのことは忘れろ」

 自分の身に起きていることが信じられなかった。後から考えれば、俺は「殺さなくてもまったく危険のない小物中の小物」と判断され、ついでにただ気まぐれに憐れんでもらっただけなのだが、とにかくこれ以上の僥倖はなかった。


 気が付くと俺はコヨーテの事務所がある古い雑居ビルの入り口に立っていた。自分で歩いて帰ってきたはずなのに、記憶がまるでなかった。

 靴が片方脱げ、頭から同僚の血をかぶったあげくに服はゲロまみれ、おまけにションベンまで漏らしたひどい有様だったが、とにかく命はあった。

 事務所に入った俺はすぐさま着ていた服を脱ぎ捨て、水しか出ないシャワーを浴びた。着替えると事務所中の金をひっかき集めて駅まで走り、故郷に向かう電車に飛び乗った。

 両親に頭を下げて家業の小さな鋳型工房で働き始め、それも板についてきた頃に親戚のつてで嫁をもらい、息子ばかり三人が産まれて今に至る。

 電車賃は事務所にあった金で足りたから、あのとき血まみれのジャケットに突っ込まれた紙幣は使わず、未だに俺の手元にある。理由は上手く言葉にできないが、多分俺は死ぬまでこの金をとっとくんだろうな、という気がしている。

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