第一章第三節<澄氷>

 いくつもの足音とざわめきが重なり合う音で、少年は目を覚ました。

 擦り切れ、染みだらけの薄い毛布に包んだ体を起こしてみると、路地には微かな朝陽が差し込んでいた。

 とはいえ、まだ払暁とも言えない時刻。霞む目を凝らしてみても、辺りにはまだ夜の名残があちこちに残されていた。

 建物の合間に見える空は、色彩に満ちていた。

 少ない絵具で筆を走らせたかのような、かすれた雲は濃い桃、橙、そして淡い群青。天空は紫に染まり、視線を落とせば彼方の空はまだ黒く眠っている。

 そんな空の美しさとは裏腹に、少年が眠っていた路地は排泄物と垢の匂いに満ちた場所だった。石畳は割れて抉れ、すぐ近くに腐った果実が落ちている。まだ暗い路地の奥から大きな鼠が傍らを走り抜けていく。

 少年は体を起こし、ざわめく通りに顔を出してみる。

 通りを進んでいるのは多くの人々だった。

 奇妙なのは、歩を進める人々が明らかに違いすぎていることだった。老若男女、というだけでは表すことのできない、実に様々な者たちが一様に道を進んでいた。

 筋骨隆々たる偉丈夫もいれば、瘦せ細った老人もいる。

 酒場の踊り子のような見目麗しい乙女もいれば、自分と同じような襤褸を纏った少女もいる。

 大きな荷台を引きながら進む者もいれば、身一つで先を急ぐ者もいる。

 そんな人の波を前に、少年は昨日の酒場で教えてもらったことを思い出した。

 「洞」に挑む者は自らの技量を証明しなければならない。

 「洞」は過酷な世界であり、地上の理屈が通用しない。手練れであってもいとも容易く命を落とす。

 だからこそ、己の技量を証明する必要があるというのだ。望む者は訓練を受けることさえできる。もっとも、それには金がかかるのだったが。

 一攫千金を狙う者、自らの腕を試す者、生涯をかけた冒険に身を投じる者、真実を求める者。如何様な目的はあれど、いずれもこの町を訪れる者は概して、「洞」に挑む者たちだった。

 そして、それは少年とて例外ではなかった。

 もとより荷物などない。村を出るときに持ってきた食べ物など、とうに食い尽くしてしまっていた。

 ふらりと通りに出た少年は、人の波に呑まれるようにして流されていった。


 大きな建物が見えてきたのは、すっかり明るくなってからのことだった。

 街はずれにある大きな建物には、いくつもの入り口があった。幅の広い通りを埋め尽くすほどに集まった人々は、そのどれかを通り抜けていく。

 中で何が行われているかなど、少年には知る由もなかった。

 知ったところで、何ができるわけでもない。準備といっても、ただ時間を持て余すだけだ。少年はただ俯きながら、自分のつま先だけを見つめながら並んでいた。

 自分の前に並んでいた男の番になったところで、少年は初めてそこで何が行われていたのかが分かった。

 出身、名前、経歴。そうしたことを申告し、奥でそれぞれの技量を試すという仕組みになっているようだった。並んでいた男は傭兵だったようで、少年の知らぬ地で立てた戦歴を自慢げに語っていた。武器は酒代に代えてしまったと話していたが、太い腕と鍛えられた体つきが男の話を裏付けているようだった。

 結局、その男は戦士としての技量試しを受けることになったようだった。

「次」

 こちらを一瞥しただけで、係りの者が少年を呼んだ。

 少年は男に倣い、前へと進み出る。

「出身、名前……まあ、お前はそれだけでいい。まずどこから来た」

 少年の様子を一目見れば、戦いの経歴などないことは誰にでも分かる。

「南の、村……名前は知らない」

 問われた少年はたどたどしく答える。村の名前など、そこに住む者にとってみれば何の意味もない。今のように、人々が打ち捨てた寒村であればなおのことだった。

 人が離れ、さびれ、朽ちた村など珍しくもない。それ以上は聞いても仕方がないと考えたのか、質問が変わった。

「じゃあ、お前の名前は」

 名前を問われた少年は戸惑った。ついぞ名前など呼ばれたこともなかった。その日を生きていくのに必死だった生活で、名前は何の役にも立たなかった。

 数秒迷った挙句、少年は小さい声で答えた。

「村では、マルゾと呼ばれていました」

 訪ねた男はそれを聞き、一瞬憐憫にも見える表情を浮かべた。

 マルゾというのは、いわゆる蔑称だった。ごく潰しや無駄飯喰らいと言った、役に立たない者を指して嘲る言葉だった。

 それだけでも、少年が村でどのような扱いを受けてきたのかを察することができた。だが、そんな話はどこでも聞く。哀れだとは思うが、正直そんな子供はこの町にも溢れている。

 しかし、この少年は路地裏で蹲るのではなく、こうして「洞」へと挑む館に訪れたのだ。その心意気だけは、買ってやらなくてはなるまい。

「お前、こっちを見ろ」

 少年は顔を上げた。弱々しいが、瞳はひたと男を見つめていた。深い海の色をした瞳で。

「お前の名前はイース。「澄んだ氷」という意味だ。覚えておけ」

 そういうと、手元の帳簿に何やらを書き込む。

「この先の、白い旗のところに向かえ。……次」

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