第一章第二節<祝杯>
少年は名すら告げずに酒場を去っていった。
身一つで南の辺境にあった集落から最も近い「
夜も更けた頃、店主のもとへ一人の女性が訪れた。
緩やかに波打つ巻き毛を鬱陶しそうに跳ね除けつつ、女性は席に着くと背後で繰り広げられている乱痴気騒ぎをうんざりした表情で一瞥した。
「食事はもういいのかい」
注文される前に酒杯を置く店主に、女性は嘆息混じりに答える。
「もういらない、これ以上飲んだら明日は一日中寝て過ごすことになりそう」
汗と酒と焼けた肉の混じった匂いを大きく吸い込みながら、女性はもう一度溜息をついた。
「お仲間たちはまだ盛り上がっているようだが」
「ようやく第二層に降りられた自慢話をずっとしてんのよ」
ごつごつとした岩肌を走る光が、陰影を殊更に大きく揺らめいて見せる。
どこか近くに暗渠があるのか、水の流れる音がする。そういえば、足元の岩もところどころが湿っているような気がする。
「最初の戦闘で一層に戻る、それでいいんだろ」
「私はまだ賛成してないんだけどね」
背後から聞こえてくる声に、革鎧を身に着けた女性は素っ気なく答えた。
先頭には天を仰ぐほどに大きい禿頭の男が歩いていた。分厚い装甲をものともせずに、常人なら立ち上がることすらできぬほどの重装備に身を包み、さらに身の丈を優に超える柄の長さをもつ戦鎚を両手で構えたまま、歩を進める。
その後ろに革鎧の女性、そしてさらに後ろには白い僧衣を纏った男と、短弓を背負った男が続く。先程弁解とも取れる言葉を口にしたのは、弓を携えた男だった。
「誰だってそう思うだろ。一層の敵にはほとんど勝てる。そりゃあ豚鬼や犬鬼の大群にはさすがに敵わねえが、それでも大抵の相手なら敵じゃねえ。それなら、第二層に降りたほうが、稼ぎだって段違いだ」
「勝てればね」
女性は一言で切り捨てた。あの男は完全に油断している。多くの冒険者が手を焼いている第一層の敵となんとか渡り合えるようになったことで舞い上がっているのだ。
第二層の情報はほとんどない。そんな中で勝てる保証などどこにもない。
床の凹凸に足を取られぬように進んでいると、ふと先頭の男が止まっているのが目に入った。
女性は理由を聞かずに、男の隣まで足音を殺して進んだ。
声を出して、敵がいれば気づかれる。振り向いた隙を狙われることもある。
だから自分で確認する。一時の気の緩みとはそういうことだ。
目の前には闇が広がっていた。それまでのような回廊ではなく、広い空間だった。
同時に気づいたのは、腐臭。原因はすぐに分かった。
「ありゃあ……なんだい」
「牛」
男は低い声で短く応えた。言われて、ああなるほどと得心がいった。
ねじれた角を持った牡牛がいた。相当な巨躯だが、腐っていた。
「洞」の魔力の影響だろう。ここで放置された死体は動く。
ぶふぅ、と腐臭を吐き、腐った牛が走り出した。やや遅れて二頭目も同じ行動に出る。
ゆらりと巨漢の男が前に出る。いつもの定石だ。だが今回の相手はもう死んでいる。この戦い方が通用するかどうか。
そもそも、牛の体当たりを防ぎ切れるかどうか。知らずのうちに足が半歩、退いたときだった。
「我、深き淵より祈らん、我が声に耳を傾け給え」
聖職者の男が右手に
「主よ、慈しみ深き主よ、汝のしもべを御国に迎えさせ給え、悪しき呼び声に迷うことなく輝く門扉を開け放ち給え」
刹那、広間が白く淡い光に包まれた。決して目を射ることのない、それでいて清冽な光。
苦痛を感じぬ筈の牛がもんどりうって倒れた。見れば四肢は痙攣しながら硬直し、横倒しになったまま立ち上がれないでいる。
祈りが効いた。だが片方だけだ。
腹まで揺さぶるほどの音をさせ、先頭の牛が男に激突する。男もまた戦鎚を横に構え、牛の双角を防いでいた。あと少し、受け止めるのが遅れていたら、腐汁に濡れた角は男の胸板を貫いていただろう。
しかし腐っているとはいえ、牛だ。いつもなら易々と弾き返す男が、牛の膂力の前に動けないでいる。
それを好機と見た女性は即座に行動に出た。腰に吊った細身剣を抜き放ち、牛の前肢の関節をすれ違いざまに横薙ぎに斬りつける。刃の半ばほどまでを滑らせるようにして肉を断ち、次に手首を返して柄で関節を殴打する。
脆くなった骨が砕ける感触があった。痛覚はないだろうが、動けないようにすればいい。もし生きていれば今の一撃で怯むだろうが、そうもいかない。
攻撃を始めたのはしんがりの男も同時だった。女性とは反対側へと飛び出したときには、既に短弓に矢を二本番えていた。走りざまに一射、さらに矢を抜いて二射。どちらも膨れ上がった腹に突き立っている。
左右からの攻撃に、牛の力が緩んだ。その隙に男が怒号とともに戦鎚を渾身の力で押し出す。
よろめきながら一歩下がる牛の頭上で戦鎚が反転する。そのまま、重量を生かした攻撃が牛の頭を直撃した。
頑丈な頸椎ごと破壊され、首を失った牛がさらに下がる。だがまだ斃れない。
徹底的に破壊しなければ駄目なのか、と思ったときであった。
弓遣いが三回目の攻撃を放つ。放った弓は火炎に包まれていた。
ぐずぐずに崩れていた肉を抉った矢の炎は牛の腹に溜まっていた腐気に反応し、爆散した。
店主の豪快な笑い声に、女性は手をひらひらと振った。
「宝なんて見つかるわけないじゃない。おかげで頭からひどい匂いの肉をかぶる羽目になったんだからね」
辟易した様子でため息をつき、それから武勇伝に花を咲かせている弓遣いをもう一度見る。
「あいつはまだいいほうよ。そこがまた腹が立つんだけど」
「それでも、勝ちは勝ちだ。あんたらは第二層から生きて帰ってきた」
店主は普段なら高値を付ける、芳醇な香りのする紅蓮色の酒を小さな盃に注いだ。
「我らに幸あれ」
盃は二つあった。女性は微笑むと、もう一つの盃を摘まんで持ち上げ、続けた。
「明日も日輪の守護あらんことを」
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