天使の問い

春風月葉

天使の問い

 目の前の少年は自らを天使と名乗った。天使はどこか冷たい笑みを浮かべ言った。

「あなたにはあなた自身が天国に行くのか地獄に行くのかを選ぶ権利があります。」そう言って天使がパチンと指を鳴らすと一瞬で周囲の景色が変わった。

 目の前には懐かしい景色があった。それは少年の頃の思い出、根からの真面目であった私と少しばかり不真面目な悪友はどういうわけか仲が良かった。景色は紙芝居のように切り替わっていく。

 青年時代、両親の反対を振り切れずにいた私の背中を押したのは悪友だった。彼の助力で私は両親を納得させ、都心の学校へと進学した。そこで私は初めて恋をする。

 その女性は自分の知る女性の印象とは異なる容姿をしていた。色が白く、線の細いその姿を目で追った。その日からその女性ばかりを見るようになった。恋の一つも知らぬ私は悪友に助言を求めた。彼はその感情の名を教えてくれた。

 悪友の助けもあり、私は女性と付き合い、そして生涯を共にする誓いをたてた。私はその女性、妻のために働き、子宝にも恵まれた。家族の幸せのため、私は真面目に生きた。

 都心の教育に無知な私のせいで妻には苦労をかけただろう。休日には料理や洗濯などの家事を手伝い、少しでも妻の負担を減らそうと努力した。なんとか無事に我が子を大学に送り出した。数年後、我が子が伴侶となる人を連れてきたときには涙を流して喜んだ。

 孫の顔はぼんやりとしか覚えていない。この頃から私の記憶はふわふわとして、気を抜くを消えてしまうようになっていた。不意に現れた天使が私に向かってこう言った。

「ここから先の記憶はあなたのものであってあなたの知らないものです。どうぞ、ご覚悟を。」彼はぺこりと頭を下げる。

 それから先のことは思い出したくもない。自分の元を訪ねてくれた孫のことを忘れ、我が子の伴侶の名を忘れ、ついには我が子のことさえ忘れてしまった。

「お父さん、俺だよ。」泣きそうな顔で我が子が言う。

「君は誰だい。」記憶の中の私がそう言う。それを見て私は我が子の名前を声に出す。

 そしてとうとう私は妻以外を思い出せなくなった。数分前の記憶すら思い出せない私は妻を、大事な人たちを傷つけてもその事実さえ覚えていることができなくなっていた。それでも彼女たちは私を見捨ててはくれなかった。私が死ぬ最期の瞬間まで、妻は自分を傷つけた私の手を握っていてくれた。

 声にならない声と共に私は崩れ落ちた。悪い夢だと思いたかった。天使は無慈悲に問いかける。

「さぁ、あなたはどちらを選びますか。」私は答えた。

「地獄だ。地獄に連れて行ってくれ。私には地獄しかありえない。」今より苦しいことなどないと思えた。地獄の業火でさえ生温いだろう。天使は溜め息を吐き地獄のある方向に視線を向けた。私がそちらに歩き出そうとしたとき、背後から一人の男が声をかけてきた。

「地獄へ行くんだろう。俺も連れて行ってくれよ。」聴き慣れた声だった。忘れるはずもない。振り返るとそこには悪友が立っていた。

「久しぶりだな。じゃあ行こうか。」彼は私の肩に馴れ馴れしく腕を置きそう言った。

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天使の問い 春風月葉 @HarukazeTsukiha

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