第109話 悲劇
屋敷に向かい合うと、強い風が吹いた。リディは目を細め、腕で顔を庇った。屋敷が揺れて見えた。何かがおかしい。
『なぜですか?誓い合ったのに』
突然、女の悲痛な叫びがリディの頭の中に響いた。思わず頭を押さえて、リディはその場にしゃがみ込んだ。
『すまない。もう、君には会えないと思ったんだ。私たちの誓いは許されないものなのだと』
男も嘆く。途端に、リディの頭には映像が流れ込んできた。先程の男の嘆きは、目の前の男のものだろう。暗い上に、土砂降りの雨のせいで、男の顔はよく見えない。
『すまない。本当にすまない。だが、もう私にはどうすることもできない』
男は泣き崩れていた。リディは、男を見下ろした。酷い雨だった。男はずぶ濡れで、身体の芯まで冷え切っていることだろう。男は、地面に這いつくばるようにして、リディに謝罪の言葉を投げかけ続けた。遠くで光る稲妻の光で、男の顔がチラチラと照らされていた。もっと若かったのに、とリディは思った。目の前の男のことなど知らないはずなのに。リディの足元には、水溜りができていた。その水面に映るのは、若く美しいエルフの女だった。
『君からの連絡が絶って何年経ったと思っている?十五年だ。私はもう、三十五になってしまった。結婚するしかなかったんだ。世継ぎを作るためにも』
エルフの女は、十五年経っても若く、美しいままだった。これが、種族の違いなのだと理解してしまった。女にとってのたった十五年が、男にとっては、若い盛りを終えてしまうほどに長い年月だったのだ。
『頼む、分かってくれ』
男は十五年もかけて、女への愛情を過去のものにしたが、女はたった十五年で気持ちの整理をつけることなどできなかった。エルフの女にとって、十五年前など、つい先日のことなのだから。リディの中に、女の張り裂けるような哀しみと激しい怒りが流れ込んできた。そして、魔が囁いた。お前に力を与えよう、と。
ほんの一瞬、辺りは雷光に満ち、雷鳴が轟いた。それが治まると、再び闇に包まれる。その瞬間、女は闇を知った。
口から溢れ出てくる呪詛の言葉を止める術を女は持たなかった。地面に這いつくばる男は、恐怖に目を見開いて女を見上げていた。かつて愛した女が壊れゆく様を、ただ見ていることしかできなかった。屋敷の中からは、赤ん坊の泣き声が聞こえていた。
リディは胸のあたりを掴んだ。呼吸は整わない。胸が苦しい。呪詛の言葉が口から溢れそうになる。リディは歯を食いしばった。だめだ。その怒りは、自分のものじゃない。セルヴェ家の破滅など、望んでいない。
「リディ!」
セラフィーナの声が遠くに聞こえた。しかし、リディは懸命に冷静さを取り戻そうとした。雨なんか降っていないし、嘆く男も怒り狂う女もここにはいない。ここにいるのは、リディとセラフィーナ、リクハルドにユリアだ。赤ん坊の泣き声だってしていない。リディは呪詛の言葉を吐きに来たのではない。全てを解放しに来たのだ。
「早く、壊せ。全てを」
リューディアの声が頭の中に響いた。リディは頭を横に振る。頭が割れそうに痛かった。リューディアは喚き続けた。静かだった声がだんだん金切声になっていく。
「全てを奪え!あの裏切り者から!」
「もう、奪っただろう」
「いいや、まだだ。まだ足りない。全てだ。あの男と同じ血が流れる全ての者を葬り去らねばならん」
「可哀想な奴だな」
「何と言った?小娘」
「可哀想だと言ったんだ。もうやめろよ。こんなこと」
リディは立ち上がった。嘆く男などいない。もうどこにもいないのだ。リディの中に怒りも憎しみもない。何も壊す必要はない。
「愛する男の幸せくらい願えなかったのか」
リューディアの叫び声が頭に響く。その悲痛な声に、リディは胸を痛めた。リディはリューディアが経験したような、身を焦がすような恋を知らない。それでも、セルヴェ家の先祖の行いによって、リューディアの心が粉々に砕け散ってしまったことは理解できた。
「終わりにしよう」
リディは支離滅裂な言葉を喚き続けているリューディアに語りかけた。リディはもう、リューディアからの正常な反応は期待していなかった。リューディアはもう壊れてしまっているのだ。何百年も前に。
リディは呪いを解き始めた。見たこともないような複雑な呪いだったが、リディは正しい手順で呪いを解き進めていった。リューディアの邪魔が入ることはなかった。リューディアがどうなっているのかは気になったが、リディは余計なことを考えないようにした。呪いの解除に全神経を集中させら必要があった。気を抜けば、呪いに飲み込まれそうだったのだ。
月が低くなり、やがて消えた。空の端が白み始め、夜明けが迫ったとき、リディは呪いを解き終えた。安堵し、その場に座り込んだ。額に滲んだ汗を手で拭う。すぐそばにいるセラフィーナも安堵した様子でリディを優しく見つめていた。緊張を緩めた瞬間、リディの意識はその場を離れた。
何が起こったのか、リディにも分からなかった。ただの魔力切れで倒れたわけではなさそうだ。リディの意識は、何者かの手により、どこか別の場所に飛ばされていた。真っ暗で陰気な空間だった。
「あーあ。全部解いちゃったんだね」
声がした方に目を凝らすと、エルフの男がいた。
「誰だ」
「おっと失礼、会うのははじめてだったね。私の名はボトヴィッド」
エルフの男は愛想良く微笑んで、手を差し出した。握手でもしようというのだろうか。リディがその手を取ることはなかった。ボトヴィッドの方も、すぐに手を引っ込めた。
「この呪いは、全て解くと術者が死んでしまうのさ。正しく解いてもね。闇の力に手を出すというのは、そういうことなんだよ」
「じゃあ私は死ぬのか?」
「君は術者じゃない。術者の魂を半分持つだけの存在だ」
「リューディアが死ぬのか?」
「本来ならね。でも、リューディア殿は死なせない。代わりに贄が必要だ」
「は?」
「君がリューディア殿の代わりに死んでくれよ。君が死んでくれれば、魂を半分失うことにはなるが、君にいろいろ邪魔されるよりマシだろうしね」
「断る」
「君の意思なんてどうでもいいよ」
ボトヴィッドは呪文を唱えた。死の呪いだった。死ぬ、リディがそう思った時、ギルバートから渡された指輪が強い光を放った。真っ暗だった空間は、光で溢れた。ボトヴィッドは眩しそうに手で顔を守った。
「それは、ヴィルの……!」
ボトヴィッドは光に飲まれ消えていった。それと同時に、リディも元の場所に戻っていた。
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