第108話 満月の夜

 数日、あるいは数週間が経過した。相変わらず、エマはリディがセルヴェ家へ戻るのに反対なようだったが、マイリと植物の観察をしたり、世話をしたりするのに忙しいらしく、ほとんど姿を見かけなかった。リディにとっては都合が良かった。エマの方も、リディに何を言っても無駄だと分かっているから、何も言わないようにマイリと行動を共にして気を紛らわせているのだろう。四六時中一緒にいたら、言わなくてもいいことまで言ってしまう。程よい距離というものは大切だ。


 ギルバートの方も仕事が忙しいらしく、毎朝リディの部屋へ来て一緒に朝食をとりには行くものの、朝食の後に見かけることはなかった。リディはギルバートの仕事を手伝ってもいいとは思っていたが、特に何も言われなかったし、またシリルと話し込んでテオドアに怒られるのも嫌だったので、毎日自分の部屋にこもって無為に過ごしていた。日付感覚もなくなるというものだ。


 しかし、そんな日々も今日で終わる。セルヴェ家の呪いを解くのは、闇の力が最も弱まる満月の夜から夜明けにかけて。そう聞かされていた。そして、今日がその満月なのだ。


 扉がノックされ、バルコニーで空を見上げていたリディは部屋の中へ戻った。そして、そのまま扉の方へ向かう。何も持ってきていなかったから、持って帰るものなどない。いるのは心の準備くらいだろう。扉の向こうにはエルフが数名立っている。リクハルドと、セラフィーナ、ユリアそれに……


 リディは扉を開けた。


「リディ」


 扉の正面に立っていたのはシルヴィアだった。会いたい時には現れず、会いたくない時に現れるなんて、相変わらずいい性格をしている。


「時間か?」

「ええ。その前に少し会いたくて」

「私は会いたくなかった」

「本当に捻くれた子ね。誰に似たんだか」

「あんたに決まってるだろ」

「そうね」


 シルヴィアは笑った。リディも釣られて少しだけ笑う。


「私がセルヴェ家へ戻っても、あんたは私の母親だ」

「そうよ」

「だから、別にかしこまって別れを言うつもりはない」

「そうね」


 シルヴィアはリディを抱き寄せた。


「リディ、健闘を祈っているわ」

「ありがとう」

「さあ、行こうか」


 少し離れたところにいたリクハルドが言った。シルヴィアはリディから離れ、不安げに微笑んだ。リディはしっかりとした足取りでリクハルドの方へ歩み出した。


「いってらっしゃい」


 シルヴィアはリディの背に言った。リディは振り返らず、片手だけ挙げてそれに応えた。


「セルヴェ家に着くと、君は呪いの一部となる。まずは君が呪いに飲み込まれないこと。もし飲み込まれてしまったら、そこで試みは終了。申し訳ないが、君がセルヴェ家へ戻ることは叶わない」


 リクハルドは廊下を大股で歩きながら言う。リディは頷いた。


「それ以外のことは、本当に何も分からない。前例がない最悪の呪いだ」

「はい」

「何があっても、悔いはないか?」


 リクハルドはリディの目を見つめた。苦悩に満ちた目だった。リクハルドも、リディにこんなことをさせたいわけではないのだ。リディは最後の覚悟を決めて、頷いた。


 王宮の玄関には、白い馬が引く馬車が待っていた。その中にはすでに、ギルバートとオーラ、そしてエマが乗り込んでいた。リディもその馬車に乗ると、馬車の扉は閉められた。馬車は滑るように進み出し、あっという間に、エルフの国を離れた。


 ほんの一瞬で目的地に到着したようだった。馬車はゆっくりと停車した。馬車の扉がセラフィーナによって開かれ、リディだけが降りるように言われた。


「リディ」


 エマはリディに抱きついた。何も言わなくても、エマとリディは通じ合っていた。リディはエマから離れ、「行ってくる」と言った。エマはしっかりとした眼差しで頷く。


「リディ、これを」


 ギルバートは自分の指から指輪を外し、リディの手を取ると、指輪をリディの親指にはめた。


「父の形見らしい。守護のまじないがかけられているようだ。きっとお前を護ってくれるだろう」

「ありがとうございます」

「無事に戻ってきて、それを俺に返せ」

「はい、必ず」


 リディは指輪を包むように手を握った。そして、馬車を降りる。セラフィーナは馬車の中を覗き込んだ。


「二人はこちらで待っていてね。オーラ、頼みましたよ」

「承知いたしました、セラフィーナ殿下」


 リディは、セラフィーナに手を引かれ歩き出した。セラフィーナの手によって、リディの周りには強力な結界が張られていた。生まれて初めて見るセルヴェ邸は、大きな屋敷だった。セルヴェ邸の前には、従者を連れたアレクシスが立っていた。


「やあ、久しぶりだな。リディ」

「久しぶりです」

「ご両親が待っているが、まずは呪いを解かねばな」

「そうですね」

「付近の人払いは済んでいるし、屋敷の方は、セラフィーナ殿の結界が作動している。何も気にしなくていい」

「ありがとうございます」


 リディは夜の闇に静まり返るセルヴェ邸の門をくぐった。緊張していないと言えば、嘘になる。リディは小さく震える手をぎゅっと握った。手にはじんわりと汗が滲む。目を閉じて、深呼吸をする。そして、ゆっくりと目を開き、屋敷を見据えた。エマが育った家、そして、悲劇の始まった場所。


 数百年の時を経て、その悲劇を終わらせる時が来たのだ。

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