第55話 遭遇

「ローズ!」


 男が誰かを呼び止めようとしている。自分には関係ないと、リディは歩き続けた。


「ローズ!待ってくれ!」


 男の声は、遠ざからない。気のせいだろうか、むしろ近づいてくるように感じた。


「ローズマリー!」


 肩を掴まれ、リディは振り返る。見たこともない男が、息を切らして立っていた。


「ああ、ローズ、お前、今まで一体どこに」


 男はリディを抱きしめながら、今にも泣きそうな声で言った。男にとっては感動の再会のようだが、リディは恐怖しか感じない。全く知らない男なのだから。


「離せ。人違いだ。私はローズマリーなんかじゃない」


 リディに引き剥がされた男は、困惑した表情でリディを見つめていた。


「ローズ、何を言っているんだ。私が、お前を誰かと間違うわけがないだろう」

「現に今、間違ってんだよ」

「お前、いつからそんなに口が悪くなったんだ」

「だから、ローズじゃねえんだよ」

「そんな、まさか。ふざけるのはやめてくれ」

「ふざけてねえって」


 隣で傍観していたシリルがリディの服を引っ張った。そして、リディの耳元でこそこそと言う。


「本当に知らない人?」

「知らねえよ。あと、私はローズじゃねえだろ」

「偽名使って騙した男とかじゃないの?」

「はあ?そんなことしたことねえよ」

「うーん、じゃあとりあえず逃げようか」


 シリルは言うや否や、移動魔法を使ったらしい。気づいた時にはもう水盆の間に繋がる池の前に立っていた。


「さっきの人誰だろうね。校内にいたし、学校関係者だろうけど」

「学生にしては歳いってたし、教師か?」


 シリルは分からないとばかりに肩をすくめた。二人は池の水に触れて、水盆の間へ帰ると、報告のためギルバートの執務室へ向かった。




 書類の山の間から、疲れ切ったギルバートの顔が垣間見える。最近は、適度に外出もしているらしく、不機嫌そうにしていることはほとんど無くなっていた。しかし、いつも疲れ切っている。忙しすぎるというよりは、デスクワークが嫌いなのだろう。


「帰ったか。初日はどうだった?」


 ギルバートはさらさらと書類にサインをしながら尋ねた。


「特に何も。変な男に絡まれたくらいですね」

「変な男?」

「リディのことを誰かと間違ってたみたいで、ローズマリーって呼んでました」


 シリルが補足する。ギルバートはテオドアと顔を見合わせた。


「なんだよ」

「いや……シリル、ちょっと外してくれるか?」

「はい。失礼します」


 人に対する興味が極めて薄いシリルは、さっさと部屋を出て行った。早く帰れてラッキーくらいに思っているかもしれない。


「で、なんだよ」

「エマの元の名はローズマリーだ」

「なるほど。エマの知り合いか」

「ああ、しまった。セルヴェ家の次男が教員として働いていますね」


 本を開いて何かを調べていたテオドアは言う。セルヴェ家の次男ということは、エマの兄だろう。


「王都から離れているから油断していたな。バーブルシェードには他の者に回すか」

「なんでだよ」

「あなたの存在がバレたらまずいでしょう。あなたとエマは、言い逃れができないレベルでそっくりなんですから」


 ギルバートは机の上に、紙を広げた。それは北西地域の地図で、派遣員を派遣している学校の横に、それぞれ担当の派遣員の名前が書かれている。ギルバートは地図をじっと見て、何かを考えた後、口を開いた。


「セントバーンのペアと交換すればいいか」

「そうですね。明日から、ここへ行ってください」


 テオドアは地図上でセントバーン魔術学院と書かれた場所を指差しながら言った。


「明日の朝、フリッツとゲルトから引き継ぎを。制服も用意しておきます」

「分かった」


 リディはギルバートの執務室を出て、エマの研究室へ向かった。




 夕食時、目の前に座るエマを眺めていると、リディは昼間のことを思い出した。エマの兄だと思われる男は、今にも泣きそうな顔をしていた。


(この数年間、ずっとエマのことを探してたのか)


 エマの兄など、リディにとっては他人で、どうでもいいはずなのに、あの泣きそうな顔が忘れられなかった。


「どうしたの?」

「え?」


 エマと目が合い、リディは咄嗟に目を逸らしてしまった。エマの食器はもう空になっている。リディは冷えてしまったスープを口に運んだ。


「考え事?」

「いや……」


 リディは、エマの兄に会ったことを伝えるべきか迷っていた。エマから家族の話など聞いたことがなかったため、どのように伝えるべきかもよく分からない。


「今日、何かあったの?」


 言いづらい。なんとなく言いづらい。エマが家族のことをどう思っているのかが分からない。もし、家族のことを恋しがっていでもしたら……


「リディ?」


 リディは口の中のものを咀嚼し、飲み込む。そして、意を決して、口を開いた。


「今日、エマの兄貴に会った」


 エマは目を見開く。驚くのも無理はないだろう。生活圏の違う人間に偶然会うことなど、ほとんどないのだから。


「……そうなの」


 エマはやっとそれだけ言うと、食べ終えた食器を持って、流しへ行った。そのまま食器を洗い始めたので、リディは何も言うことができず、味のしない夕食を食べ進めた。


「どっちの?」


 エマはリディに背を向けて食器を洗いながら尋ねた。どっちということは、エマの兄は二人だけらしい。エマの感情が読めない。今までこんなことはなかった。いつも、何も言われずとも、何を考えているのかくらい大体分かっていた。


「テオドアは次男って言ってたけど」

「元気だった?」

「ああ、私のことをエマだと思って、抱きついてきた」

「そう。ニコラス兄様らしいわ」


 水の流れる音でよく分からなかったが、エマの声は震えているように聞こえた。


「エマ」


 蛇口を閉める音が聞こえ、エマは手を振り、手についた水を払った。


「私、もう寝るわ。おやすみなさい」


 エマはリディの方を見ずに、キッチンを出て行った。

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