第35話 前国王の記憶力
城に着くと、リディは二人と分かれ、酔いを覚ますため、ぶらぶらと中庭を歩いた。しばらく歩いたところで、ベンチを見つけて腰掛けた。嗅いだことのある花の香りが辺りに漂っていた。家の温室で、エマが育てている花だ。なんという名前だったかは忘れたが、悪くない香りだ。確か、晴れた夜にだけ咲く花だ。リディは星空を眺める。
水盆であっという間に着いたが、ここは王都からかなり離れている。水盆の魔法でも、距離が長ければ長いほど、魔力が弱ければ弱いほど、酔うらしく、魔力の弱い兵士たちの体調を考慮して、視察中はこの城に泊まることになっているらしい。
視察一日目は、思っていたより悪くなかった。ギルバートは淡々と予定をこなしているようで、勝手なことはしなかった。テオドアがため息を一度もつかなかったことからも、ギルバートがかなり大人しくしていることが分かった。この調子が続くのであれば、ダリオやシリルが言うように、ギルバートの護衛任務は悪いものでもないのかもしれない。
「こんな夜更けにどうされたのかな?」
声のした方を見ると、前国王が立っていた。ぼうっとしていたので、近づいてくるのに気づかなかった。いつもは魔力の気配で気づくのだが、本当に結構酔っているのかもしれない。そう思ったが、リディは考え直した。どんなに集中しても、前国王からは魔力が全く感じられなかったのだ。エマと同じ、全く魔力を持たない人間だ。
(だからこの強力な結界に守られてるわけか)
魔法の使えない人間にとっては、結界は強ければ強いほど良い。結界以外に身を守る手段は無いし、自身も何を制限されるわけでも無いのだから。
「隣に座っても?」
「ええ」
呆けていたリディは、姿勢を正した。前国王はリディの隣に腰掛けると、星空を見上げた。
「君は、セルヴェ伯爵家のお嬢さんではなかったかな?」
前国王はゆったりとした口調で尋ねる。
「違います」
嘘はついていない。リディがセルヴェ家の令嬢だったことは一度もないし、聞かれていないことまで言う必要はないだろう。
「私は記憶力がいいんだ。一度見た顔は忘れない」
「そう言われましても、違うものは違いますので」
前国王はじっと、リディを見つめた。リディも負けじと前国王から目を逸らさなかった。しばらくすると、前国王は諦めたように視線を外へ向ける。
「そうかね。それで、君の名は?」
「リディ・イヴ・フォレです」
「リディだね。よく覚えておくとしよう」
前国王は立ち上がり、行ってしまった。前国王が城の中に消えたのを確認してから、リディも部屋へ戻った。
翌朝、時間通りに集合場所へ行くと、ギルバートとダリオが話していた。
「もう騒ぎを起こしたらしいな」
「さすがギルバート様。耳が早いことで。というか、騒ぎを起こしたのは俺たちではないですよ。俺たちは鎮めた方です」
「どっちでも同じだ」
「ひどいなあ。お、リディ。おはよう」
ダリオが言うと、ギルバートがリディを見て、何か言いたげにしていたが、特に何も言わなかった。
その後、全員揃ったところで城を出発し、何事もなく、夕刻には城へ戻った。
「リディ、少しいいか?」
テオドアに解散を言い渡され、部屋へ戻ろうとしていると、ギルバートに呼び止められた。
「なんですか?」
ギルバートは手招きをして、近くの扉の中へ入った。仕方なくリディもそこへ入る。
「昨日、父上と話していただろう」
リディは忘れかけていた中庭での出来事を思い出す。なぜギルバートが知っているのだろう。どこかから見ていたのだろうか。
「はい」
「何を言われた?」
「セルヴェ家の娘だろうと」
「やはりそうか。父上は恐ろしく記憶力がいいからな」
「本人もそう言ってましたね。一度見た顔は忘れないとか。エマが前国王に会ったことあるとは思えないですが」
「そうとも限らん。縁談に持ち込もうと、何かの機会に伯爵がエマを連れていたかもしれん。伯爵家で、第三王子と同い年の娘がいるとなれば、そういった話も出るだろう」
「そういうもんなのか。まあ、私からは何も言ってないですよ」
「下手に動くより、知らぬ存ぜぬで通した方がいいか」
「そうでしょうね。では、私はこれで」
リディは部屋を出て、自分の部屋へ向かうため歩き出した。長い廊下をどれだけ歩いても、ギルバートが部屋から出てきた気配はない。リディは嫌な予感がしたが、気づかないふりをして部屋へ戻った。
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