第15話 二人だけの約束

 大会の日がやってきた。


 私はうれしいやら苦しいやらなんだかわからない気持ちのまま、待ち合わせの場所に向かっていた。


「おはよう木下君、まだみんなはきてないみたいだね」


 待ち合わせの場所に彼の姿を見つけた私は、まだほかの生徒がいないのを見て、一瞬戸惑いを覚えたが努めて明るく声をかけた。


「おはよ、えっ、みんなは会場で落ち合う予定だけど」


「えっ……」


 予想外の答えに、一瞬言葉に詰まる。


(えぇ! じゃあ会場まで木下君と二人っきり!)


 そういわれてみれば確かに木下君はほかの人も一緒に待ちあせてるようなことは一言も言っていなかった、でもまさか二人っきりとはその時の私は思いもしていなかったのだ。

 だからといってこんなに動揺しなくても。と自分に突っ込みをいれてくなるほど、私は急に動悸が激しくなっていくのをぼんやり感じていた。

 しばらく無言で見つめあう。


(なっ、なにかいわなくちゃ!)


 焦れば焦るほど言葉は出てこない。


「あっ……」


 口を開けようとした瞬間、不意に彼に視線をはずされた。


「じゃあ、行こうか」

「えっ、うん」


 まるで突き放す様に早口にそう言った彼の言葉を耳にしたとたん、私の心が一気に冷たくなっていくのを感じた。


(もしかして初めて私が大会会場にいくので道がわからないだろうから、誰かに頼まれていやいや木下君は私と待ち合わせしたのかなぁ)


 そんな不安が、その一言をきっかけに頭をめぐりだす。

 そんな思いに囚われていたせいもあり、自然足取りが重くなる。

 すると、木下君との距離はどんどん離れていく。


(あぁ、木下君がいっちゃう)


 彼の背中を見詰めながら私は急に悲しくなった、それと同時に、自分でも思ってもいなかった別の感情がメラメラと沸き起こってきた。


「木下くん、ちょっと……待って……」


 確かに不本意だろうが、誰かに頼まれただけかもしれないが、それでも道案内引き受けたからには、ちょんと私を送り届けるのが筋というもの。なのに彼は私にお構いなしにどんどん歩いていってしまう。

 すでに自分の中で彼はいやいや私を連れて行ってくれているという結論にいたった私は、悲しみを通り越したせいか不満が口をついていた。

 彼の行動に一喜一憂する自分にわけが分からなくなっていたのかもしれない。


「ごめん」


 しかし彼はその私の言葉を聞いたとたん、ハッとしたように歩調を合わせて歩いてくれた。

 その申し訳なさそうな顔を見た時、私は胸を締めつけられる思いをした。


(別に木下君は意地悪で早く歩いていたわけではないのだ、私の歩くのが遅いだけなのだ、男の子とこんなふうに並んで歩いたこともないから男の子の歩く速度なんて知らない、彼はいつもどおり歩いていただけなのに)


 つい非難めいた声を出してしまった自分が嫌になった。


(私ってなんて我侭なの)


 それからは木下君に申し訳ない気持ちでいっぱいで、ただ黙って彼の後をついて歩いていた。

 会場に着き知美の顔をみると、ようやく私は心のそこからホッとした。

 まるでいままで呼吸さえ忘れていたように大きく息をすう。

 木下君も私の世話から解放され、男友達と楽しそうに話しているのが見えた。


「知美~」


 知美はいきなり私に抱きつかれびっくりしたような顔をしたが、次の瞬間には理由も聞かずにやさしく私の頭を撫ぜてくれた。


 大会は想像をこえてすばらしいものだった。


「すごい……」


 私は感動のあまりさっきまでのもやもやも忘れてはしゃいでいた。

 そして大会はあっというまに終わりを迎えた。


「すごかったね」


 帰り道知美たちと話しながら、私はまだ興奮が冷めていなかった。

 しかし


「じゃあ、私はこっちだから」

「あ、そうかじゃあバイバイ」


 手を振ってそしてふと横を見ると、木下君と目が合った。

 それからハッと気がついた。

 いつのまにか二人っきりになっているではないか。


(知美!)


 しかし彼女はすでにはるかかなたを自分の家に向かって歩いている。


「すごかったなぁ、理恵先生」

「え、あ、うん、すごかったね」


 しかし私の不安は彼の子供のようにキラキラした瞳を見たとたん嘘のように霧散した。

 そして昼間の出来事が嘘のように、次から次へと言葉が口をついた。


(私木下君と話せている)


 私は自分でもおどろくほど軽快に話していた、そしてそれににこやかに答える彼を見るとさらに私の心は軽くなり、口もよくまわった。


「ねえ、木下君は、将来何になりたい?」


 いろいろ話しているうちにいつしかそんな質問が口をついた。

 しかしその質問に、いままでにこやかに話をしていた木下君の口が止まった。

 それからしばらく思案して、逆に彼が同じ質問を返してきた。

 一瞬言葉に詰まったが、答えはすぐに出た。


「たくさんあるよ」


 私は体が弱いからよく布団の中でいろんな想像をしていた。

 だから将来いろんな職業につく自分の姿を想像しては楽しんでいた。


「看護婦さん、保母さん、スチュワーデスそれに、お花屋さんかケーキ屋さんでもいいな」


 にこやかに答えた私に


「なんだよ、結局決まってないじゃん」

「夢は多いほうがいいじゃない」

「そういうのって、夢っていうのか」

「いいの」


 私はちょっとはずかしくなって口を尖らした。でもそう言った彼の口調も私を見る目もとてもやさしいかった。

 だからか、彼との会話はとても楽しかった。


「じゃあそういう木下くんは一つに決まってるの」

「俺は……」

「飛び込みのオリンピック選手だ!」

「すごい、オリンピックか、かっこいいなぁ」


 私は微笑んで繰り返した。

 木下君が苦し紛れにいったのはすぐわかった。

 でもその答えは私を同時に安心させた。


(なら水泳を続ける理由は、理恵先生でなく選手になるためなんだ)


 一瞬私の心を過ぎった都合いい考えに自分で自分がおかしくなった。


「木下君って、そんな飛び込み得意だったけ?」

「ウッ」

「木下君、本当は理恵先生の見て今思いついたんでしょ」


 私は自分の心をごまかすように意地悪な要求を彼に突きつけた。

 彼が困ったように言葉に詰まる。

 私は微笑んだ。

 他愛もない会話が幸せだった。


「私もできたらなぁ」


 彼を見ながらふと言葉がもれた。

 理恵先生のまるで空を泳ぐように飛び込んでいく姿は、私の心に深い感動を与えていた。だから苦し紛れでも、そんなことをいった木下君が少しうらやましく思え。なぜなら私はまったく飛込みができなったのだ。


「できるよ、一緒にがんばれば、きっと飯島も先生みたいに飛び込めるようになるよ!」


 ハッとして彼を見る。


「私は……」


 一瞬昔飛び込むをして痛い思いをしたことを思い出した。しかし、彼の真剣な眼差しが私の否定の言葉を飲み込ませた。

 それになにより、『一緒』という言葉がそのとき強く私の心をつかんだ。


「そうだね、一緒にがんばろう、私の夢にも飛び込み台のオリンピック選手追加だね」


 私は、はにかみながら笑顔で答えた。

 不安はあった、しかしそれ以上に何かが私を突き動かしていた。

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