第09話 赤い風船

 友達以上恋人未満

 ある意味残酷なこの表現が、今の僕たちにぴったりだった。

 はっきりとした告白をしたわけではなかが、お互いそれでいい気がしていた。

 この曖昧でじれったいような、くすぐったいようなそんな心地をいつまでも味わっていたかった。

 唯一の変わったことといえば、お互い苗字でなはなく名前で呼び合うようになったことだ。

 そして、初詣を一緒に行く約束をしたこと。


 僕は隣で歩く彩をちらりと見る。振袖ではないが白いコートを羽織った、彩は冬の妖精の様に可愛かった。

 その視線に気がついて小首をかしげるその姿も、見ているだけで胸がドキドキする。


 本当にこれは現実だろうか。

 元旦に、彩と二人で初詣に来ているなんて。

 去年の今頃は、まったく予想しなかったことだ。


 いや出会ってもいなかったから、予想もなにもないのだが。


 初めて彩を見た時、彩に惹かれたあの時には、こんな日が来るとは思ってもいなかった。

 ただ、たまに廊下ですれ違うのを楽しみにしていただけだった。

 それが今では、こうして並んで歩いている。苗字ではなく、名前で呼び合っている。


 僕はなんて幸せ者だろうか。

 僕は、お賽銭をいつもより奮発すると、神様にこの感謝を伝え、そして、この先もこうして一緒にいられることを祈った。

 隣では彩もなにか願い事をしている。

 僕は、幸せだった。

 たとえ、恋人とは違ってもこうしていられるだけでよかった。


「混んでたね」


 ようやく、人ごみを抜け出して、僕らは、屋台のある方へと歩いていった。

 屋台からは、たこ焼きやら、焼きそばのおいしそうな匂いがただよってくる。


「なにか食べようか?」

「でも、この混みようじゃもって歩くのも大変だな」


 僕はおなかを押さえながら、周りをキョロキョロ伺った。

 彩は小さく笑うとじゃあどこか入ろうか。と甘味所を指差す。

 僕も甘いのは嫌いじゃない。僕たちはその店に向かって歩き出した。


「あっ!」


 その時子供特有の甲高い声が上がった、それと同時に一つの風船が空に舞い上がる。

 おもわず二人でその風船を目で追う。

 真っ赤な風船は真っ青な大空へどんどん昇っていく。


「――どうなるんだろ……」


 まるで、独り言のような呟き。

 一瞬何をいっているのかわからなくて、僕は彩のほうを見た。彩はまだ風船の行方を目で追っていた。

 一瞬、全ての音がなくなるような錯覚を覚える。


 言葉をなくしている僕に「どうしたの? いこ」と彩が呼びかけた。

 現実がそれと同時に音をもって帰ってくる。

 彩は自分で口走ったことに気がついていないのか、いつもの笑顔で僕の手を引いて店まで歩きだした。


 空耳?


 僕は言い知れない不安を無理やり飲み込んだ。


「どうしたの?」


 帰り道。もうすぐ彩の家が見えてくるころ、僕は再び無口になっていった。

 それを心配した彩が僕にそう声をかけた時、僕はその疑問を口にする覚悟を決めた。


「ちょっと、話していかないか」


 僕はそういうとそこから少し先にある、公園のベンチまで彩を促した。

 彩も素直についてくる。


 ベンチに座るとちょうど五時を知らせる音楽が町に流れ始めた。

 音楽が終わるのを見計らって僕は口を開く。


「さっきのあれ、なんだよ」

「あれ?」


 彩はなにを言われているかわからないというように、困った顔をした。

 それから自分がなにか気に障ることをしたのかと、心配げに尋ねる。


「ごめんね、なんか怒らすようなこと私いったかな」


 もしかして、本当に無意識のうちに声に出した言葉だったのかもしれない。

 そう思うと、余計、僕の気分は暗くなった。


「『人は死んだら、どうなるんだろ』」


 僕は呟いた。

 それを聞いたとたん、彩がハッとした表情をして、うつむいた。


「どうして?」


 どうしてそんなこといったの?

 どうしてそんな言葉が浮かんだの?

 自分だって、死についてまったく考えたことがないわけじゃない。

 でも、彩と過ごす楽しい時間に、そんなこと考えたことは一度も無い。

 彩は僕といて楽しくないのであろうか?


「最近、なんか本読んだ?」

「悲しい映画とか見た?」

「誰か亡くなった?」


 しかしそのどれにも彩のあの言葉を導きだしてくれるような答えは返ってこなかった。

 彩は話題を避けたいと思っているような雰囲気をかもし出していた。それがかえって僕の不安をあおる結果になった。


「ちょっとそう思っただけだよ、別に深い意味はないよ」


 彩が明るい声で言った。しかしその笑顔をいつものように素直に見ることができなかった。


「『死ぬ』なんていうなよ」


 つい強い口調でいったせいか、いままで笑顔だった彩の顔がグニャリと歪んだ。


「ごめんなさい」


 消え入りそうな声で、彩はそう呟いくとうつむいたまま押し黙った。

 さっきまで、ほんのり明るかった空も、もうすっかり暗くなっている。


「私、小さい時から、体弱かったから、昔はいつも『死』について考えていたの」


 彩がぽつりぽつりと語り出す。


「でも、健一くんと出会ってから、本当にそんなこと考えなかった、でも、あの時、神様にお願いしてた時、つい、考えてしまったの、もし、私が死んだら、健一君は悲しむんじゃないか。私は死ぬのは怖くない、でもあなたが悲しむかもしれないと思ったら、急に怖くなった。死んでなにも残らないのが怖くなったの」


 彩はそういったきり、再び俯いた。

 僕は笑い飛ばそうとした。「人がそう簡単に死ぬわけない」僕はそういおうとした。

 でも言えなかった。

 普通の人が一晩で治る風邪も、彩は三日から五日ぐらいかかる。

 少し寒くなっただけですぐ体調を壊す。

 僕が知る限り、健康な僕からすると多すぎるぐらい休んでいる去年も、彩の母親にいわせれば、ずいぶん休まなくなったという話しだった。


 なにか、特別な病気にかかっているわけではない。

 不治の病でも、重たい病気を抱えているわけでもない。

 ただ、生まれつき体が弱い。人より、ちょっとだけ免疫力が弱いだけ。

 それだけなのに。


 大げさだと言う人もいるだろう、でも本人にとっては、大げさでもなんでもない、軽い熱でも、体は鉛のように重い、友達が毎日元気に学校に行くのを、いつも家の窓から憧れの目で眺めていた。

 学校に行きたいばかりに、自分は大丈夫と少しでも無理をすれば、すぐ入院という現実が待っている。

 点滴で動けない日も何日もあった。

 彩は小さいときからずっとそんな病弱な体をかかえ、たくさんの病気と闘ってきた。だからこんなに若いうちから、死を遠いものではなく身近なものとして考えられるようになっているのだろう。


 僕はいったい、どんな言葉がいえるというのだ。

 どんなに頭をフル回転させても、どんなに時間をかけても答えのでない問題を前に、永遠ともおもえる時間だけが過ぎていったような感じがした。

 そうしてようやく出た言葉は、慰めでも答えでもなんでもない、ただの我侭。まるで小さい子供がいうような一方的な要求。


「彩は死なない!」

「人は、いつか死ぬんだよ」


 彩はまるで大人が子供に諭すようにそうかえした。


「でも、死なないんだ、俺が……」


 僕が首を横に振りながら叫んだ。


「俺が、将来すごい医者になって彩を助ける。だから彩は絶対死なない」


 「だから生きていて」最期の言葉は、言ってしまったらまるで、彩がそれまで生きられないかもといっているようで、僕は口を閉ざした。


「ありがとう、そうだね。健一君がお医者さんになったら、私心強いな」


 彩はそういうと笑った。

 でもその笑顔はとても弱弱しくて、まるで、泣くのを耐えているようなそんな顔で、僕は思わず彩を抱きしめた。


「泣きたい時は泣け! 怖かったら、怖いって言え! もう一人で抱え込むな! もうそんな顔で笑うなよ。俺の前では、本当の彩でいていいから」


 それは怒りに近かい感情だったかもしれない。

 僕の腕の中で、彩の体は一瞬固くなりそれから、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。


「怖いよ……」


 始めは小さな呟きだった。

 だんだん嗚咽の混じったその呟きはやがて叫びに変わる。

 彩は、ずっと怖かった。ただ、周りのみんなに心配かけまいと、ずっと笑ってきたんだ。ずっとずっと独りで、死ぬのは怖くない。そう自分に言い聞かせて。

 僕は彩の涙がとまるまで、ずいぶん永い間そうしてずっと彩を抱きしめていた。

 いったいどのくらいそうしていたのか、辺りはすっかり夜の暗さになっていた。


「健一君」


 真っ赤な目をした彩が、ようやく顔をあげ僕を見た。


「ありがと」


 なにか憑き物が落ちたような晴れ晴れしい顔でほほ笑む。


「彩……ちゃん」


 慌てて、ちゃんとつけた僕に、彩は、『彩』でいいよ、と笑っていった。


「彩」

「何?」


 僕はもう逃げない、中途半端で満足なんかしない。


「彩が今まで感じたこと、考えてきたことを全部わかるとはいえないけど、これからは、僕も一緒に感じて考えていきたい」


 僕は一度言葉を切って


「僕と付き合ってもらえませんか」


 彩は少しはにかんだあと、まるで大輪の花が開いたかのような笑顔で、小さくでもしっかりとした声で「ハイ」と答えた。

 僕は、そのとき初めて彩の本当の笑顔を見たようなきがした。


「ありがと」


 僕はそういうと、恐る恐る彩の額にキスをした。


「くすぐったいよ」


 彩が笑う。

 空中で視線が絡んだ。

 僕の真剣な表情が伝わったのか、彩の笑みが引いた。

 僕はそっとまるで壊れ物を扱うように、今度はちゃんと彩の唇にやさしくキスをした。

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