第07話 髪
正門をくぐり下駄箱の前まで来て、視線を感じて顔を上げた。
スラリとした手足、日に焼けて健康そうだった肌は昔のどこか消え入りそうな白い肌になった頼りなげな細い体。
「おはよう」
久々に登校してきた彩の小さく微笑んだ顔は、前とどこか違っていた。
「髪、切ったの……」
腰まであった長く綺麗な髪が、耳が少し見えるか見えないかぐらいにばっさりとなくなっていた。
「似合わない、かな?」
はにかんだ笑み。
「ううん、かわいいよ、でも、どうして……」
僕の問いに、少し困ったように言おうか言うまいか口を開きかけてはまた閉じ、彩はあいまいに微笑んだ。
「気分転換……かな」
なにか言いかけた僕を遮るように、教育指導の先生の、「遅刻になるぞ!」という声が廊下の方から聞こえた。
「行こう」
僕たちも教室に入らないと遅刻だ。
結局それ以上彩に質問することはできず僕は教室に入った。
その日授業中ずっと彩が髪を切った訳を考えていた。
休み時間に聞こうとしても、そんなときに限って先生に用事を頼まれたり、友達に捉まったりした。
結局放課後になるまで、彩と話す時間は作れなかった。
ホームルームが終わるやいなや、僕は脱兎のごとく教室を飛び出した。
なぜ彩が髪を切ったのか。
女の子が髪を切るのは失恋した時だ、となにかの本に書いてあった。
失恋、彩は恋をしていたのか?
さすがにそれが自分だとは思えないのが悔しいところだが、もしかして同じクラスの男か?
そいつが僕たちを誤解して彩を振った。
いや、でもそんな噂は聞いてない。
それに彼氏が同じ教室にいたなら、僕が手を出す前に彩を助けていたはずだ。
それとも、こないだお見舞いにいったのが彼氏に誤解をされ別れた?
頭が混乱して、わけのわからない想像ばかり膨らむ。
なんで彩は髪を切った?
あんなに長くてきれいな髪を?
泳ぐ時も人より苦労しながら帽子をかぶり、毎日丁寧に手入れをしていた自慢の髪。
教室につくと、すぐに彩を見つけることが出来た。
彩はいきなり現れた僕に、びっくりしたように目を大きく見開いていた。
「どうしたの、そんな息切らして」
僕は一度大きく深呼吸すると、言った。
「ちょっといい?」
早く聞きたい衝動をどうにか押さえ込む。
そして戸惑っている彩を教室から連れ出すと、屋上へと続く階段まで連れ出した。
そこでようやく僕は口を開いた。
「彼氏に振られた?」
いきなり呼びつけて、第一声がそれとはなんとデリカシーのない言葉だろう。
もっとじょうずな聞き方がたくさんあるはずなのに。
僕は言ってしまってから、そう思ったが一度口からでた言葉はもう返ってこない。
「彼氏?」
彩が大きく見開いた目を、さらに丸くして僕を見た。そして次の瞬間、彩は両手で顔を覆った。
泣いてる!?
しかし聞こえてきたのは抑えようとしても抑えられない笑い声だった。
一通り笑い終えると、涙をぬぐいながら彩が謝った。
「ごめん、木下君の想像力にびっくりしちゃって」
「そんなに変なこといってないじゃないか」
「だって、髪を切っただけで失恋なんて。確かに漫画の世界ではよく見るけど──」
またクククッと笑う。
「私に彼氏なんかいないよ、それに髪を切ったのは気分転換だっていったじゃない」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ……」
好きな人は? 勢いついでに言いかけた言葉はさすがに途中で飲み込んだ。
「なに?」
「…………なんでもない」
彼氏がいないということにホッとすると同時に、いまさらながら、結構はずかしいことをやらかしたことに気がつき、顔が赤くなる。
「ねぇ、一緒に帰ろう」
そんな僕に彩が優しくそう問いかけた。
僕は、真っすぐに彩を見ることができず小さく頷くことしか出来なかった。
十字路で別れるまで、僕たちは一言も話さなかった、でもそれが僕にはなぜか心地よかった、彩も同じだといいなと思ってちらりと隣を歩く彩を盗み見る。
初めて見た時は背のスラリと高い女の子だと思っていたのに、こうして並んで歩くと、自分よりずっと小さいことに気がついた。
それなのに真っすぐ前を見据えた瞳は僕よりずっと先を見ているようで、どこか大人びて見えた。
「じゃあ、ここで」
「うん、また明日」
分かれ道で僕はしばらくそのままの姿勢で立っていた、彩も歩き出そうとはしない。
「あのね……」
強い眼差しが僕を見上げる。
「?」
「あのね……」
しかし次の言葉が紡げず彩が口篭る。
僕はあせらず、彩が次の言葉を見つけるまで辛抱強く待った。
しかし内心は、心臓が破裂するのではないかというほどドキドキしていた。
「あのね……髪切った、本当の理由はね……」
ドキリとした。
やはり本当の理由があるのか?
さきほどから続いていたこの甘い時間が全て消えてなくなってしまう。
そんな予感がして僕は一歩下がった。
「…………」
「…………」
無理して言わなくていいから、という言葉が喉元までこみ上げたとき、彩の口が動いた。
「理恵先生」
「理恵、先生……?」
突然上がった名前に僕は頭が真っ白になる。
そんな僕にお構いなしに、彩はせきを切ったように言葉を続けた。
「理恵先生に憧れて切ったの。だって、やっぱり水泳続けていくなら、長い髪よりこっちのほうが楽だし、それに先生とっても格好がいいし、強いし、あっ、強いって力とかじゃなくて、その心の持ちようとか、いろんな意味でなんか強いし」
一息で言い切ると彩は息を吐いた。
「私は……私を変えたい。髪を切ってすぐ変わるわけじゃないけど、少しでも先生みたいな、心も体も強い女性になりたくて……」
「……そう、だったの、あー、なんだ」
何かがすとんと腑に落ちた、それと同時におかしくなって僕は腹を抱えて笑った。
「なんで笑うのー」
彩は少し拗ねたように頬を膨らませたがつられて笑いだす。
「先生に憧れるのはいいけど、先生みたいな男女になるなよ」
「あー、ひどーい、先生にいってやろう。木下君が理恵先生のこと、男女だって言っていました、よって」
「やめろよ、俺マジで殺されちまうよ、飯島はまだ入ったばかりだから知らないだろうけど、あの人本当は超スパルタなんだぜ、筋肉も実はすごいし、水着で見えないだけで、腹筋だって割れてるらしいぞ」
僕はゲラゲラ笑いながら、そんなことを言った。
彩も確かにあの腕で抱きしめられたら、木下君ぐらいポキッって折れちゃうかもね。といって笑った。
「俺そこまでいってないからな」
僕達は涙を流しながら笑い続けた。
その日を境に僕たちはよく一緒に帰るようになった。
それと僕は休みがちな彩のためになにかできないかと考え、授業ノートを作ることにした。
別にいままでサボっていたわけではないが、黒板に書かれていない先生の豆知識的な話や、関連知識も書いた。そうすれば学校を休んでも彩の授業が遅れることはないと思ったのだ。
それにそれを言い訳に彩の家にもまたいけるかもしれない。
後から知ったことだが、そんなことをしなくても、彩の成績は僕なんかより、ずっとよかったのだが、その時僕ができる彩への精一杯のことだった。
初めてノートを手渡した時、彩は今にも泣き出しそうな顔で「ありがとう」と言った。
そんなに喜ばれるとは思っていなかったので、逆に戸惑ったのをよく覚えている。
そしてそんなに喜ぶならばと、僕はよりいっそうノート作成に力を入れた。それは彩が休んでいようがいまいが関係なく毎日続けた。
そんな感じで二学期はあっというまに過ぎていったのだった。
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