第06話 病気
「あれ彩ちゃん、今日も休みなの?」
飛び込みの練習をしている僕に、鮎川知美が話しかけてきた。
鮎川は違う学校だが、僕の次に長くこのスイミングクラブに通っていて、同学年だったため、女子の中ではよく話せる方だった。そして僕の知る限り活発で明るく、そしてよく言えば面倒見の良い、悪く言うとちょっとおせっかいな人物でもあった。
「そうみたいだね」
僕は、そっけない態度で答えた。
「風邪かなぁ」
鮎川は僕に聞いているとも、独り言とも取れるような口調で話す。
僕はそんな鮎川をチラリとみただけで、無言でプールに飛び込んだ。
11月に入り寒さがましてくると彩はスイミングクラブをよく休むようになっていた。それとともに学校でも姿を見る機会が減った。
プールの水は、僕の体をやさしく包み込む。同時に奪われていく体温に比例するかのように頭が冴えてくる。
理恵先生の大会の日から、徐々に距離を縮めはじめたと感じていた僕は、それが自分の独り善がりだったということを痛感していた。
僕は、彩のことを何一つ知らない。
休み時間廊下で会わなくなった。教室を見ても姿が見当たらない。
そんな僕に彩と同じクラスの女子が話しかけてきた。
「彩ちゃんの具合はどうなの?」
そこで始めて僕は、彩がここ何日もたびたび学校を休んだり早退していたりしたことを知ったのだ。
学校では、僕たちを恋人と勘違いしている人もまだおおい。そして僕もあえてそんな噂を否定せず、時が解決するか願わくはその通りになって欲しいとさえ思っていた。
しかし思い知らされる。
彩が休んでいたことも、どうして休んでいるかということも、いまどうしているのか、そして彩の家も電話番号もなにも知らないことを。
僕は、勢い良く水面に顔をだした。
限界ぎりぎりまで潜っていたので、呼吸が荒い。動悸がなかなかおさまらない。
僕はプールサイドに戻ると、そこに腰掛けた。
水面をジッと見つめて動悸がおさまるのを待つ。
そこに影が落ちる。
「ねぇ、本当は知らないんでしょ」
その言葉にギクリと横を向く。鮎川がちょこんと僕の横に腰を下ろしていた。
「……」
僕は視線を水面に戻す。
学校と違い水泳教室まで僕たちの間違った噂は入ってきていない、それでも同じ学校というだけで彩のことはみんな僕に聞いてくる。
「お見舞いいかない?」
その言葉に僕は再び鮎川を見た。
「私、家知ってるよ」
僕の戸惑った目から何かを読み取ったのか、鮎川は「じゃあ終わったら外で待っててね」と返事も聞かずにそう告げると、他の女子の中に戻っていった。
スイミングクラブが終わっていつも一緒に帰る男友達を適当に用事があるからと先に帰すと、僕は鮎川を待った。
「待った? 髪乾かすの時間かかんのよね」
鮎川はそういいながら、いつもは水泳帽で隠れている、長く綺麗な髪をかき上げた。
小学生の時から知っているはずなのに、こうしてプールの外であうことはかなったせいか、いつもと雰囲気の違う姿に、少しドキリとする。
しかし鮎川はまったく僕のそんな態度を意に介さずさっさと歩き出した。
「いきなりいって平気かな」
その背中に恐る恐る、声をかける。
「大丈夫、もう電話してあるから」
鮎川の行動の早さに驚かされる。それと同時に、鮎川は彩の番号を知っているという事実に少なからずの敗北感を感じる。
「てぶらじゃなんだから」
途中、スポーツドリンクやらなんやらを二人でかいこむ。僕は彩の家に行くというだけで舞い上がっていて、そんなことすら思い浮かばす、流石女子は気が利くなと感心した。
彩の家は実はそんなに遠くなかった。同じ学区内なのだから当たり前なのだが。
家の前で次はどうするのだとばかりに呆然と立ち尽くす僕をよそに、鮎川がチャイムを押す。
「あら、知美ちゃんいらっしゃい」
鮎川とは面識があるらしく、彩の母親は快く迎えてくれた。
「おじゃまします」
僕は頭を下げながら、もうすでに家の中に足を踏み入れている鮎川に続く。
「あなたは、健一くん?」
ちょうど横を通り過ぎようとしたとき、彩の母親がそう聞いた。
思わず、びっくりした顔で振り返る。
「やっぱし、そうなのね、彩から話は聞いているわ」
彩の母親は僕の返事を聞かずに、うれしそうにそういった。
いったい彩はどんな話を母親にしているのか気になったが、僕はとても聞けなかった。
そうして、僕たちは彩の部屋に案内された。
「ごめんね、パジャマで」
部屋に入るなり彩が謝った。
「いいよ、病人なんだから、それより、こっちだって、いきなり来てごめんね」
鮎川はまったく悪びれた調子もなく、そんなことを言う。
「具合大丈夫?」
鮎川と彩が話しているのを聞きながら、僕は初めて入る女の子の部屋に落ち着かず、さらにパジャマ姿と聞いて、まともに彩をみることもできず、部屋に入ってから座ったままの姿勢でジッと床を見つめていた。
「昔から、この時期は苦手なの」
布団の中で、彩は少し熱っぽい声でそういった。
それからしばらく、また女の子だけの会話が続く。そして、
「じゃあ、私はこれで帰るね」
突然、鮎川がそういって立ち上がった。
僕はあまりのことに、鮎川を呆然と見つめた。
「えぇ、もういっちゃうの」
彩も、びっくりしたようにそういった。
「ごめん、この後予定あるんだ」
「じゃあ、僕も……」
慌てて立ち上がろうとした僕を、鮎川が手で制する。
「せっかく色々買ってきたんだから、二人で食べてよ」
僕はまるで罠に嵌められた動物のように、あたふたと狼狽えた。
しかし鮎川はそんな僕にお構いなしに「じゃあ」と軽く手を上げながらさっさと部屋を出て行ってしまった。
扉の向こうから、彩の母親の「あら、今プリン用意したのに、食べていかないの」という残念そうな声が聞こえてきた。
それからすぐに運ばれてきたプリンによって、僕は帰るきっかけを完全に失ったのだった。
母親が部屋出てからしばらく沈黙が続いた。
それからどちらともなくプリンを食べ始める。緊張のあまり、まったく味のしないプリンを食べ紅茶を半分まで飲んだ辺りでようやく、僕は口を開いた。
「大丈夫か?」
なんともまぬけな質問だった。
「うん」
熱っぽい声で、彩もそう答えた。
「……」
「……」
僕はチラリと彩を盗み見た。
目が合った。
なぜかそれがおかしくてすこし笑った。つられるように彩も笑った。
それから二人で他愛のない話をポツリポツリと話出した。
「座り飛び込みができるようになったんだ」
「あんなに怖がってたのに、凄いじゃないか」
「次は立ち飛び込みの練習を始めるつもり」
「僕は三メートの飛び込み台の練習をしてるよ」
「知ってる」
「次は十メートルだ、早く治さないと、どんどん先に行くぞ」
「そうだね、早く追いつかないとね」
彩はほほえみながら僕をみる。
和やかな時間。
二人だけの時間。
「じゃあ俺もういくよ」
「もう帰っちゃうの」
「うつったら困るしな」
「そうだね」
彩が布団の中で悲しげに目を伏せる。
「冗談だよ」
僕があわてて言うと「わかってるよ」と、彩はいたずらっ子のように笑って見せた。
からかわれたのは自分のほうだったと気がつき、また笑った。
「じゃあね」
「あぁ、また学校で」
帰り道、僕は彩のことを思った。
体が弱いのは知っていた。それが理由で水泳を習い始めたのだから、でもいつも彩はそんなこと微塵も感じさせないぐらい元気に振舞っていた。
でも今日見た彩は違った。
夏の間に焼けた肌は、元の透けるような白い肌に戻り、それは病気で床に臥せる彩をさらに頼りなげに見せていた。
「今年はいいほうなのよ」
彩の母親の言葉が思い出される。
毎年僕の知らないところで、こうして彩は一人戦っていたのかと思うと、涙がでそうになった。
「早く暖かくならないかな」
僕の心の様に曇った空を見上げながらそう呟いた。
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