第03話 きっかけ

 その日を境に週に二回、なんとなく通っていたスイミングクラブがとても待ち遠しいものに変わった。

 そうはいっても、思春期。挨拶はするが、自分から話しかけに行く勇気はなく、また彩からも何か質問されることもなかった。

 それでも理恵先生が来るまでの間、友達とふざけながら意識だけは他の女子たちとたわいもない話をする彩に向いていた。

 準備運動が終わると、級ごとに分かれるので彩とは少し離れたコースに移動する。

 女子という生き物は、中学に上がったとたん、いままでと違う生き物になるようなきがする。


「小学校までは、平気にじゃれあって遊んでたのに」


 いまでは目が合っただけで、たまにすごくいやな顔をされる、それもここはスイミングクラブだ、水着の女子と目があったりなんてしたらどんないちゃもんを付けられるかわかったものじゃない。彩がいわなくても周りの女子が騒ぎたてるだろう。

 なのでこの少し遠くから、なんとなく視界に入るぐらいが丁度いいのだ。


 初めあまり泳ぎが得意そうではなかった彩だったが、まるで呼吸をするように彼女は泳ぎをマスターしていった。

 決して力強くはないが、彩の泳ぎはまるで波に身をまかせ戯れながら泳ぐ魚のように静かな美しさがあった。


「人魚姫みたいだ」


 まさか自分にそんな夢見る少女のような発想が出来るとは、思わず笑ってしまう。

 しかしそんな彩にも、なかなかマスターすることができないものがあった。

 飛込みである。

 飛び込むどころか飛び込み台に立つと、いつも白い肌がさらに青白く変わる。

 僕はそんな彩を毎回ハラハラして見守るしかできなかった。

 理恵先生も無理をせず、泳ぎを楽しむことが大切だと彩に話して、無理に飛び込みの練習をさせるようなことはなかった。


 そんな感じで彩を見守りながら、しかし特に進展がないまま、その年の夏休みは静かに終わっていった。


 ※ ※ ※


 二学期が始まってしばらくたった昼休み、僕は話題が落ち着くのを見計らって友達の輪を抜けだした。

 同じ建物内の壁を隔てすぐ隣のクラスにいるというのに、なんてもどかしいのだろう。

 僕はこの時ほど同じクラスになれなかったことを、残念に思ったことはない。

 同じクラスなら毎日会える。なにかのきっかけで話すこともできるかもしれない。

 同じ班、委員会、なんだっていい、接点ができるチャンスがあるはずなのに、クラスが違うというだけで、なんて遠いい存在なんだ。


 さらに、先週土曜日彩はスイミングクラブを休んだ。ずる休みならいいが、彩がそんなことをするとも思えない。

 僕はとりあえず、彩の元気な姿が見れればいいと、月曜から三組の廊下の前をうろうろしているのだが、彩と偶然会うことも、教室に姿を見つけることもできなかった。


 風邪でも引いたのかもしれない。

 姿がみれないと僕はさらに心配になった。

 そして火曜日、僕は登校時下駄箱の前で彩の姿を見つけた。

 タイミング悪く友達につかまり、挨拶もできなかったがそれでも少しだけほっとした。

 それと同時に僕は無性に声を聞きたくなった。

 廊下をうろついていれば彩とすれ違うかもしれない、そしたら「スイミングクラブ休んだみたいだけど、風邪ひいたの? 大丈夫?」なんて声をかけるんだ。

 僕はそんな思いを胸に、勇気をもって廊下へと出て行った。


 昼休み廊下のドアはどのクラスも開きっぱなしで、いろんな生徒が教室の間を行き来している。

 僕は通りすぎる振りをして、横目で中をうかがいながら歩いていると、それは聞こえてきた。


「お前、体が弱いとか言うわりに良く日に焼けてるなぁ。学校サボって、海にでもいってたんじゃないのか」


 人をからかうときの独特な意地の悪い口調。まだ声変わりをしたばかりなのか、女なのか男なのかわからない妙な響き。

 僕の視線は自然にその声の方に向いた。


 少し俯いた肩に長く艶やかな黒髪が落ちている。髪のせいで顔が見えないが僕にはそれが彩だとわかった。


 微動だにしないその背中は、必死になにかを耐えているようだった。


「シカトかよ、なんとかいえよ、オイ」


 相手の男子生徒は、彩が黙っているのを面白がるようにさらに強い言葉を投げつける。

 周りのみんなも聞こえているだろうに、誰もそれを止めさせようとはしない。他の友達との話で夢中になって聞こえていないというように、しかし教室にいた誰もが背中でことの成り行きを窺っているのがわかった。


「オイ、何とか言えよ」


 男子生徒が彩の肩を小突くより早く、僕は彼を殴り飛ばしていた。

 一瞬相手も何が起きたかわからず、ただ殴られた頬を手で押さえながら、しりもちをついた姿勢で僕を見上げている。

 教室中が水を打ったように静まりかえった。


「なっ、なんだ! お前!」

「お前こそ女子をからかっておもしろいのか!」


 僕の鬼のような迫力に負けたのか、夏休み中に急に伸びた背と水泳で鍛えた体格がそうさせたのか。いや、彩のような儚げな女子をからかうしかできないようなやつだ、もとから気が強い方ではないのだろう。

 男子生徒はなにかいいたげに睨みつけたが、そのままなにも言わず教室を出て行った。


「飯島、大丈夫か……」


 彩はさっきと変わらない姿勢で俯いたまま小さく頷いた。

 僕はまだなにか言わなくてはと口を開きかけたが、ちょうどチャイムが鳴ってしまい、僕は言葉を口にすることなく教室を後にした。


 次の休み時間には、僕が隣のクラスの男子生徒を殴ったことがすでに噂になっていた。案の定、職員室に呼ばれ先生に怒られるはめになった。

 だが、その隣で先ほどの男子生徒も、女子をからかっていたことが判明して怒られていた。


 いい気味である。これで彼が彩をからかうことがなくなればいいのだが。


 先生に怒られながら、そんなことを考える。

 そしてその日は、全ての授業が終わるまで、僕は彩の様子を見に行くことはできなかった。

 放課後、一番に彩の教室に行ったが、すでに殆どの生徒が帰った後だった。僕はそのうちの一人を捕まえて、彩のことを聞き出したが、どうやら彩はあの事件の後すぐ具合が悪くなり早退したとのことだった。

 僕は彩のことが心配だったが、どうすることもできず家に帰るしかなかった。

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