第九話 第2957次梨紅香夜戦争
「おかしいよ。あの時は詠と二人しかいなかったはず。この条件が本当なら本が開くはずないんだ」
「でも本が開いたということは、
詠の考えを、梨紅が引き継いだ。
「──知られざる三人目がいたか?」
「祖父さんのノートを読む限り、他の人に開かせようとしたり、燃やそうとしたり、色々実験をしたみたいだ。それを考えると、条件としては三人目がいたというのが正しいと思う」
そして何より──
「本を三人目が持っていったとすれば、無くなっている理由も説明がつく」
「ああ、でも一体誰が……」
片付け中も祖父の家は鍵がかけてあった。鍵は詠が持っているものと、スペアが家にあるだけだ。
関係のない第三者が入ってくることはできない。
となると──
「香夜が犯人だ!」
「……まさか、そんなはず」
「いや、間違いないね!」
梨紅は断言した。
「根拠は?」
「女のカンだよ!」
「いやいやいや冷静に考えようよ」
「いや、決まってるね。ボクたちの邪魔をしようとしに来たんだよ」
あの日、窓から恨みがましくこちらを見下ろしていた香夜を思い出すと、否定できないものがある。
「それとも、あのものぐさな深月さんが手伝いに来てくれて、偶然あの場に居合わせた可能性があるとでも?」
あの叔母は、片付けを詠に押し付けて一度として手伝いに来たことはない。
「いや、それこそありえないけど」
「なら、嫉妬に狂った香夜が、深月さんの目を盗んでここに来た可能性は?」
「それは、……十二分にあり得るけど、さ。でも──」
「では、偶然第三者、例えば泥棒があのタイミングで来た可能性は?」
ないとは言い切れないが、ものすごい低い可能性だろう、詠は首を横に振った。
それを見て、梨紅は言葉を続けた。
「さて、そう考えると犯人は──あの女しかあり得ないだろう?」
梨紅の目は怒りに染まっていた。
この理不尽な状況に叩き込まれた原因とまでは言わないが、香夜がここを訪れなければ、魔法世界に変わることもなく、それまで相手にもしていなかった者に短距離走で負けることもなかったのだから。
暴走しそうな梨紅を止めることはもう不可能だと諦め、少しでも情報を得ようと、さらに祖父の手記を読み進めていくと、突如変わった世界に驚きについての考察だったのでとばして、最後のほうを見る。そこには世界をもとに戻すことに決め、三人揃った状態で栞をはさむことで、魔法世界を終わらせたとあった。
栞はいまだに梨紅の手の内にあった。
「ふうん、これで世界を元に戻せるわけか」
それをめざとく見ていた梨紅は凶暴な笑みを浮かべると詠の家に向かって暴走した。
●△◽️
詠は、爆走する梨紅に手を引かれて、自宅へと戻った。
息も絶え絶え家に着いた頃には、詠の体力は限界で鍵を開けた時点で玄関先に倒れ込んでしまった。
梨紅は元気一杯で、扉の中に飛び込む。
「お邪魔します!」
勝手知ったる他人の家。
梨紅が靴を脱ぎ散らかし、香夜の部屋に向かって階段を駆け上がった。
詠は、香夜と衝突する前に止めなければと思っていたが、身体が休憩を求めており、動くことができない。
「なんだ、もう帰ってきたのか?」
倒れた状態から見上げると、我が麗しの叔母──深月がいた。
「こんな短時間で帰ってくるなんて、……詠は早漏なのか?」
「あのなぁ、俺たちは祖父さんの家で探し物をしてたんであって、深月さんが考えているようなことをしに行ったわけじゃあないから!」
いや、そんなツッコミを入れている場合ではない。
「それより香夜は? 部屋にいるの?」
「いや、(お前の)部屋では勉強に集中できないようだったから図書館に行かせたよ」
部屋のと言う前にボソリと付け加えられな気がしたが、重要なのはそこではない。
とりあえず、梨紅と香夜がすぐに衝突することがないとわかって安堵した。
それも束の間、上の階──梨紅の部屋から、ドッタンバッタンと騒がしい音がしてきた。
本格的に家探しをしているらしい。
「梨紅はなにをしているんだい? また香夜と喧嘩でもしたのか?」
梨紅と香夜の仲の悪さは、深月も重々承知しているから、呆れ顔で上の階を見上げている。
「えっと、なんと言いますか……」
梨紅と香夜が喧嘩をして周囲に迷惑をかけると、なぜか申し訳なくなる詠である。
「梨紅が、香夜のことを春休み最後の日、邪魔をするために祖父の家まで来たんじゃないかと疑っていまして……」
「詠との情事を覗かれたんじゃないかと?」
「いや、そういう訳じゃあないけど……」
魔法世界に変わったことを認識しているのが詠と梨紅、そして知られざる三人しかいないため、本のことをどのように説明したらいいのか、詠は言葉を詰まらせた。
「それなら心配無用だ。お前らが存分にイチャイチャできるようにあの日、香夜は部屋から
「へ?」
「お前たちの考えた通り、香夜は抜け出して祖父の家に行くつもりだったようだから──」
深月はドヤ顔でこう言い放った。
「扉の前につっかい棒を置いて、物理的に開かないようにしたうえで缶詰で勉強させた」
しかも、出してやろうという情けがおきないように自分もその後出かけたとのこと。
「虐待かっ!」
トイレに行きたくなったらどうするんだ。
「安心しろ。
もちろん、喉が渇いたときのために飲み物も渡したし、精神安定のため勉強しにきたレナも一緒に部屋へ入れておいたと深月は続ける。
頭が痛くなったが、こんなことをしている場合ではない。
深月の言うことが事実であるならば、香夜は三人目ではないということになる。
香夜が帰ってくる前に梨紅を止めて、さらに部屋を荒らしたという証拠を残さないように片付ける必要がある。
筋肉痛が出始めた身体に鞭をいれて、詠は階段に足をかけようとしたが、時すでに遅く。
「ただいま」
香夜が帰宅してきてしまった。
──まずい!
詠は背筋に冷や汗が流れるのを感じた。
「おかえり香夜早かったなレナちゃんはどうしたんだ?」
とりあえず、誤魔化しつつ時間を稼ごうと矢継ぎ早に香夜に話しかけた。
「レナとは家の前で別れたけど……」
詠の質問に答えつつ、香夜の視線が天井に向く。
上の階──香夜の部屋からドッタンバッタンと隠すことができないほどの騒音がしていた。
詠は額に汗を浮かべながら、どうすれば梨紅と香夜の衝突──からの戦争を回避できるか考えていた。
「兄さん、梨紅さんは今どちらに?」
ヤバい。香夜の言葉遣いが敬語になってる。
香夜は怒ると言葉遣いが殊更丁寧になるという癖があるのだ。
香夜の綺麗すぎる笑みが怖い。
絶対わかっていて聞いている。
「え〜とお……」
「失礼します」
言い訳はさせてもらえなかった。
香夜は詠の脇を通って階段をのぼり始めた。
詠は慌てて香夜を追いかけた。
「香夜、これには事情があるんだ」
もちろん、玄関から香夜の部屋までの短い距離で事情を説明しきれるはずもなく、香夜はこれでもかと散らかった自室に着いてしまう。
「梨紅さん、わたしの部屋でなにをしているのでしょうか?」
香夜の後ろにいた詠には彼女の表情は見えなかったが、絶対零度の声質からとても怖い表情をしていることはわかった。
見る勇気はないが、過去の経験からきっと夜叉のようであろうと予測した。
相対する梨紅の形相は──顔は赤く、眉間には皺が寄り、口の端が吊り上がり隙間から犬歯がのぞいていた。
それはまさに修羅のようであった。
「ぁぁああぁ……」
詠は無力であった。
戦争を回避することはできなかったのだ。
ここからは、いかにうまく戦後処理をするのかが重要になる。
「本を出せ」
梨紅が吐き捨てるように、香夜へ言う。
「キミが持っているんだろう?」
「なんのことでしょう?」
香夜は首を傾げる。
「とぼけるな! あの日──」
「梨紅ちょっと待った!」
詠は梨紅にあの日香夜は部屋に閉じ込められていたことを伝える。
だが、梨紅は意に介さない。
「このブラコン狂いであれば、窓から出ることもできたはずだよ」
梨紅は詠の肩を押してどかすと、香夜の前に立つ。
「これだけ探して部屋にないなら、あとはその鞄の中くらいだろう」
梨紅が香夜の鞄に向かって手をだす。
「渡してもらおうか」
「なんの話か存じませんが、どうぞお好きなように」
香夜が鞄を梨紅に差し出す。
「ですが、何もなければどうなるかわかっているんでしょうね?」
あまりに素直な香夜に、梨紅は舌打ちをした。
「そこには無いってことだね。どこに隠したのかな?」
「ですから、なんのことだか存じません」
梨紅と香夜はどんどん近づき、ゼロ距離で睨みあった。
二人の怒りの内圧はこれ以上ないほど高まっていた。
「これはあれかな? またボクに懲らしめられて泣きをみたいと言っているんだよね?」
「あらあら、ご記憶は確かですか? いつもわたしにやり込められて、みっともなくベソをかいているのは貴女ではないですか?」
「キミこそ頭は大丈夫かい? 確か戦歴は僕が全勝してるよね」
「あらあらまあまあ、呆けるのは早いんじゃあないですか? 2956戦してわたしが無敗ですよ」
そこからは無言だった。
すでに言葉はいらないと二人は悟っているのだ。
初手は梨紅だった。
「シッッ!」
上体を後ろに傾けながら、超至近距離の蹴りを放つ。狙いは香夜の側頭部──こめかみだ。
躊躇なく急所を狙いにいく梨紅に戦慄を禁じ得ない。
だが、香夜はスウェーバックすることで蹴り脚を避ける。
彼女が腕を一振りすると、その手には特殊警棒が握られていた。
遠心力ですでに棒身は伸びていて、艶消しをされたブラックメタルが、瞳孔の開ききった香夜の瞳をフラッシュバックさせて背筋が震える。
というか、いつも思うのだが、どこから特殊警棒をだしているのだろう。
「──ふっ!」
香夜が特殊警棒を振るう。梨紅のこめかみ──急所に向けて。
なんで、こいつらはそんなに殺意満々で相手を攻撃できるのだろうか。
香夜の持っている特殊警棒なんて、世界最高硬度──アメリカ警察やFBIが採用しているASP警棒を裏道で入手したと言っていた──で、コンクリートブロックも簡単に破壊することができる。
そんなものを頭に振りおろしたら、スイカ割りのように頭蓋が砕けること必至だ。
梨紅はそんな一撃をしゃがんで躱すと同時に、水面蹴りで香夜の足を刈りにいった。
香夜が跳躍することでやり過ごし、屈んだ梨紅の頭頂部目がけて鋼鉄の棒を振りおろす。
そこに手加減とか躊躇というものは微塵も感じられない。
「死になさい!」
「アマい!」
香夜が特殊警棒を振りきる前に、梨紅は床に手をつきブレイクダンスのように足を振りあげる。
どこぞの漫画のカポエラ使いのようなトリッキーな動きだった。
梨紅の踵が、香夜の持ち手にヒットする。
「くぅ……ッ!」
苦痛に顔を歪めた香夜が手を押さえながら後ろに下がる。あの攻撃でも特殊警棒を手放さないのは凄いと思うが、梨紅にとっては明確な隙だ。
「逃すか!」
梨紅の大技──助走をつけてこれでもかと遠心力を込めた跳び後ろ回し蹴りを放つ。
香夜はなんとか特殊警棒でガードをするが、衝撃を殺しきれず吹き飛ばされて壁に背中を強打した。
「……カハっ」
背中から肺を強打したため、香夜は一時的な呼吸困難に陥った。さすがの彼女も蹴りの威力に手が痺れたのか特殊警棒を取り落とす。
梨紅の瞳が鋭い光を宿す。口の端が吊りあがり犬歯がのぞく。
猫化の大型肉食獣のような笑みだった。
「
──マズい!
あの初動は梨紅
彼女の跳躍力ならば、香夜の顔に叩き込むことが可能である。
そうなれば香夜の綺麗な顔が前歯全損鼻骨陥没骨折──修復困難なほど壊されてしまう。いや下手したら衝撃で頚椎が折れて死んでしまう。
詠は梨紅を止めるために死ぬ気で飛び出そうとした。
だが、視界の端にひっかかった香夜をみてその動きが止まる。
香夜の赤い唇がわずかにほころんでいた。
その瞳に確かな殺意が宿っていた。
詠の背筋が凍りつく。
──罠だ。
梨紅はすでに跳躍の動作に入っていた。
「──『吹き飛びなさい』──」
香夜の切り札。
それは──
「…………ッ!!」
梨紅は踏み切った瞬間、慣性を無視して後ろに吹き飛んだ。
まるでダンプカーに轢かれたかのように彼女の身体は重力に逆らい、勢いよく反対側の壁に突っ込んだ。
あまりの衝撃に部屋が揺れた。
倒れてきた本棚の下敷きになる。
「ちょっお、梨紅! 大丈夫か!?」
詠は慌てて梨紅を発掘して助け起こす。
見たところ流血はないし、骨折もしていないようだ。
「……痛ッ、いったいなにが……」
呻きながら梨紅が上体を起こすが、すぐに力なく詠の胸に寄りかかる。
「あらあら、無様ですね。梨紅さん」
香夜が特殊警棒を手に玲瓏すぎる笑みを浮かべて梨紅を見下ろしていた。
「これで2957戦してわたしが全勝。泣きをみたのは貴女でしたね」
香夜は当然のように梨紅にとどめを刺そうとした。
「ちょっと待った! 香夜ストップ!」
「あら兄さん、そこの毒婦の息の根をとめるチャンスなのですが、まさか止めるなんて野暮なことおっしゃらないですよね?」
「いやいやいや止めるに決まってるだろう!」
なに言ってるのこの
「ですが、この荒らされた部屋の代償は払っていただかないと」
部屋を荒らした代償が命って、重すぎでしょう。
「それは謝る。俺が代わりに謝るから穏便に、どうか穏便に!」
「あら、でしたらこの代償は兄さんが払っていただけると?」
「……あの命だけはなにとぞ」
「わたしが兄さんの命をとるわけないじゃないですか」
香夜は愉しげにわらった。
「もっと、いいものを貰いますよ」
彼女はぺろりと唇を舐めた。妹が兄に向ける所作とは思えないほどの淫靡さが漂っていた。
詠の背筋が震える。まさかの貞操の危機かもしれない。
「──この……ッ、
「あらあら、負け犬の遠吠えでしょうか? 無様ですね」
梨紅があまりの悔しさに目の横に涙をためた。
「あらあらまあまあ、みっともなくベソをかいて、恥ずかしくないのかしら」
死者への鞭打ちが酷い。
詠は梨紅に耳打ちをした。
「ここは俺に任せて、梨紅はおとなしくして、お願いだから」
これ以上はマジで命にかかわるから。
梨紅は半泣きで歯軋りをした。
「くそう……っ」
今回の戦争は香夜の勝利で終わった。
このように明確に勝敗がつくのは初めてかもしれない。
いつも引き分けに終わって、互いに自分の勝ちだと主張していたのだから。
「終わったかい」
部屋の入り口に深月が立っていた。
「今回はまた、派手にやったねえ」
額を抑えてため息をつく深月。
「香夜。梨紅に大きな怪我をさせてないだろうね」
「ええ、
香夜は梨紅を見下ろしてこう言い放った。
「ちゃんと
死者に鞭打ったうえに、火を放つような所業である。
梨紅の決して零さんとしていた涙が決壊した。
顔を見られないように詠の胸に押しつけていたが、じんわりと染みる温もりと肩の震えから彼女が泣いているのがわかる。
「〜〜〜〜ッ!」
梨紅、初めての完敗である。
香夜はそれを見下ろして、くすくすと、心底愉しげに──
あまりに惨い
「姉さんと私はどこで育て方を間違えたんだろうな……」
深月は何かを諦めるように首を横に振ってから部屋に入る。
「梨紅、うちの
そう声をかけると、梨紅の背に手を回し膝下に腕をいれて持ちあげた。俗に言うお姫様抱っこだ。
「傷の手当てをして家に帰すよ」
「あ、俺も……」
「詠はあっちだ」
深月があごで指すほうには、香夜が満面の笑みで佇んでいた。
「戦後処理をしておけ」
「ふふふふ、兄さん。梨紅さんの代わりに負け戦の賠償を払ってくるのですよね?」
そうだった。
詠は絶望感に天井を見あげた。
この日、詠は魔力交換という名目で干からびるまで魔力を吸われた。
首すじに噛みつかれ、まるでキスマークのような赤い痕が刻み込まれることになる。
その時の香夜は恍惚の笑みをうかべ、艶かしい吐息をもらし、まるで男の精を啜る
●△◽️
香夜が梨紅を打ち負かした頃、レナは自宅に戻っていた。
机に鞄を置き、そこからとりだしたのは『本』であった。
「敵地に切り札をもっていかせるわけにはいきませんからね」
『本』はレナが持ち帰っていたのだ。
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