第三話 兄は妹離れをしようとしている
回想から現実に戻った詠は、大きくなってもまったく仲良くできない二人を見て嘆息をする。
嘆息が重なった。
ふと視線を上げると叔母である深月が頭痛をこらえるようにこめかみをとんとんと叩いていた。
「毎朝毎朝──というか、小さな頃からお前たちは……、学習能力がないのか?」
深月は首を横に振ると、香夜に向き直った。
「香夜。部屋に戻って勉強しなさい」
「でも!」
「デモもストもない。戻れ」
有無を言わさず、深月は香夜に命じた。
この家で深月さんの言葉は絶対である。言い方に昭和の香りを感じるが。
「う──っ!」
涙目で梨紅を睨みつけてから、香夜は階段を駆けあがって部屋に飛び込んだ。
バタン! という扉が閉まった音がした。
梨紅が余裕の笑みで、それを見送っていた。
梨紅と口論して、叔母に諌められて半泣きで香夜が部屋に飛び込むまでの流れが春休みが始まってから毎回繰り返されている。
深月は二階の香夜の部屋の方を見ながらため息をついた。
「あのブラコンはどうにかならんものかね」
深月は寄ってしまった眉間のしわをほぐすように親指でぐりぐりした後、梨紅にむかって香夜のことを詫びた。
「ところで、詠とはやることをやっているのか?」
梨紅がキョトンとした顔で深月を見返した。
「何を?」
「ナニをだ」
深月は、人差し指と中指の間に親指を挟んで握り拳をつくった。
ブラジルでは
梨紅は真っ赤になって、
「してません!」と叫んだ。
そもそも付き合ってすらいませんとも付け加えられた。
「なぜ付き合っていない、詠に不満があるのか? シスコンなことをのぞけば、顔は地味だが整ってるし、成績もそこそこだ。なによりお前に優しいだろう?」
深月が梨紅に詰め寄る。
「私としては、香夜が詠を犯す前──コホン、失礼。過ち犯す前にさっさとくっついて欲しいのだが」
「あのな。さっきからツッコミどころが満載なんだけど」
詠のツッコミは華麗に無視された。
「家族から性犯罪者を出さないためだ。出来る限りの協力をしよう。具体的には、今日は家に誰もいないんだけれど、という状況をつくってやる」
深月は、人差し指と中指の間に挟んだ親指をヌプヌプと下品に動かした。
「青春の情動に突き動かされてやることやってくれてかまわない」
頭が痛くなってきた。
ちらりと梨紅の方を見ると、真っ赤になり、俯いてしまった。
嘆息をひとつ。
「そろそろ行ってくるよ」
話を打ち切って、梨紅の手を引いて外に出る。
背後から深月の声がした。
「香夜は部屋に閉じ込めておくから、存分にイチャイチャしてきてくれ」
「俺たちはあんたに頼まれた片付けに行くんだよ! デートじゃねえから!」
梨紅はすでに茹で蛸のようになり顔を上げることもできていない。
扉を開けて家を出たタイミングでとある少女とであった。
「あ、レナちゃん」
「おはようです。おにいさん」
一見すると小学校の五、六年生と見間違うほど幼い容姿をしているが、これでも香夜の同級生──この春より中学三年生である。
北欧の血が四分の一入っているためか、髪や瞳の色素が薄く、感情を表に出さない娘なので、内心でクールロリ子ちゃんと呼んでいた。
「おはようさん。これから香夜と勉強?」
「はい、こう見えても受験生なので。もちろん中学受験ではないですよ」
まさかの自虐ネタである。
さらに冗談を言っているのにまったくの無表情。表情筋が死んでるのではなかろうか。
詠は苦笑しながら手をあげて別れの挨拶を示した。
歩き出した詠の背中にレナが声をかける。
「おにいさん」
レナのほうを振り向くと上を指さしていた。
それを追っていくと我が家の二階の窓が見えた。
そこには──
香夜が恨みがましくこちらを見下ろしていた。
わざわざハンカチを噛んでいる小芝居までいれている。
「なにをやっているんだか」
ため息をつきつつ、香夜にも手を振って、いってきますと伝えた。
もちろん、香夜のジト目がなおることはなかった。
「相変わらずだね、キミの妹は」
やっと顔の赤みがとれて落ち着いた梨紅がそう揶揄した。
出かける際のごたごた含め、あのテンパリ具合でも香夜がジト目で見下ろしていたことに気づいていたらしい。
「で? お兄さんとして、──道を踏み外したりしてない?」
なんてことを言うのだろう。
「当たり前だろう」
「じゃあ、
「そ……れは、」
香夜を毎朝起こす場面を思い出す。
梨紅がため息をつく。
「この前、自分が香夜の彼氏だと勘違いされた時に決意したんじゃあなかったっけ?」
梨紅は詠に人差し指を突きつける。
「このままじゃあ、香夜のためにも良くない。結婚どころか彼氏すらできないかもしれない。今後は節度をもった兄妹として過ごす。ボクに決意表明までしたよね?」
「う……っ」
「この、優柔不断」
何も言い返せない。
だが、あの香夜に泣かれそうになると条件反射で言うことを聞いてしまうのだ。
兄としての悲しい
「超絶ブラコン」
「ぐぅ……ッ」
あまりのダメージにボディブローを受けたように身体が折れた。
「でも、一線はちゃんと
あたりまえだろう、と梨紅は呆れ顔だ。
「一線を越えたら絶交だよ、一生話しかけないでね」
そらそうだ。
肩を落とす詠に、梨紅がため息をついた。
「しっかりしてよね、ちゃんとしたお兄さんになるんでしょう?」
「わかってるよ」
「本当に?」
露骨に疑われている。俺はそんなに信用がないだろうか、と幼少時代から現在までを振り返り──
脳裏に香夜をさんざん甘やかした記憶がよみがえる。
まあ、信用なんてないわな。
「深月さんの言葉じゃあないけれど、あの子はマジで一線を引いておかないと、襲われるんじゃない?」
「そんなことは──」
ないとは言い切れないのが怖いところだ。
「ほんとに、しっかりしてよね、お兄さん」
「はい」
詠は、高校生になるんだからしっかりしなきゃなと項垂れた。
そうこうしているうちに着いた。
目的地である祖父の家だ。
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