キャッチボール
夏休みも終盤のことだ。
ササキは遅い昼ごはんを食べたあと、家の近所にある土手を散歩していた。中学三年になり、ゲームにも漫画にもなるべく触れないようにして生活している彼にとって、日課である昼下がりの散歩は唯一の楽しみである。
右手には、先日の雨で茶色く濁った川が流れている。そう大きな川でもないので、雨上がりだからといって恐ろしくはない。流れがどうどうと音を立てているのは、ところどころに作られた落差工のためで、いつものことだった。
今日はここ数日の、雨と曇りとを繰り返し続ける空模様とは打って変わって、洗い立ての青空である。久しぶりの陽光が、彼の肺をいっぱいに満たす。
花の終わったたんぽぽについた露で、靴先を濡らしながら歩いていると、「ホレ!」という朗らかなしわがれ声が後ろから聞こえてくる。誰だろうと思いつつ振り返ると、ボールが飛んできて肩にぶつかった。
「ちょっと、いきなり危ないじゃないですか」
八メートルほど離れたところに、さきほどの声の主である老爺が立っている。ササキの困り顔を見て、彼はカラカラと笑った。
ササキは、見ず知らずのお爺さんから急襲を受けてしまったことに腹を立てた。しばらく受け取ったボールを弄んでいると、それが青地に白いマーブル模様という不思議な柄をしていることに気がつく。はて、こんなおかしなボールを使う球技が果たしてあっただろうかと思いつつ、ササキはそれを感情に任せて思い切り投げ返した。けれども、運動のあまり得意でない彼の放ったボールが行き着いたのは、川のど真ん中だった。小さな川だといっても、流れが遅いというわけではない。どうやって取りに行こうかと考えているうちに、ボールは下流の方へ、あれよあれよという間に見えなくなってしまった。
「大丈夫じゃよ。いくらでも、この星が許すかぎり、ボールはあるからなあ」
老爺は声を立てて笑い、その場にしゃがんで草でもちぎるような仕草をし、立ち上がると再びササキにボールを投げた。今度は間違えずにボールを投げ返すことができたので、キャッチボールはしばらく続いた。
「お爺さん、どこから来たんです?」
「ワシは、金星から来たのだよ。ワッハッハ」
うわー、変なお爺さんに会ってしまった! とササキは内心逃げ出したい思いに駆られていた。けれども、老年の方々の中には、若者と話すことが日々の楽しみであるという人もいるのだということを、どこかで耳にしていた彼には、実際に逃走することはできなかった。それに、この不思議な老爺との交流を、楽しいと思っていないわけではなかったのだ。
「金星って、どんなところでしたか?」
「そうじゃなあ、とっても熱くて、ワシのようなジジイには辛いところじゃよ。硫酸の雨が降っているから、出かけるときも本当に気をつけなければいけないのじゃ」
「いやー、そりゃ大変です! 僕は熱いのが苦手なので、あんまり住みたくないですねえ」
すると、老爺の顔はにわかに厳しいものとなった。先程までの顔いっぱいの笑みが消え失せ、顔に刻まれた皺は深く、目は真剣そのものである。
「好むと好まざるとに関わらず、君も……いや、君たちもワシらのもとで住むことになるだろうさあ」
どういうことなのかササキには分からず、彼は一言も発することなく立ち尽くす。じきに老爺はのほほんとした表情を取り戻すと、
「いいや、驚かせてしまってすまんな」
と言い、深く屈伸をしたあと、またボールを投げた。今度の投球は空高く打ち上げられ、やがて見えなくなってしまった。
ササキは、お爺さんがかなりボールを高いところまで投げたことに目を見張った。以前は、何かの運動選手をしていたのかもしれない。そう思うにつけ、さっきのヘロヘロな自らの投げ方がにわかに恥ずかしくなってくる。
「ほんとに、高く投げるんですね! 僕も、もうちょっと運動が得意だったらなあ」
「ワッハッハ、地球人にゃあ出来やせんよ」
その言葉を最後に、老爺は姿を消した。どうやったら高く、遠くに投げられるか教えてもらおうと、もう一度キャッチボールしようと思ったら、すでに彼はいなくなっていたのである。ササキは再びお爺さんに会えるだろうかと、その日から散歩の際にはできるだけ長居するよう心がけたのだが、ついぞ彼と遭遇することはなかった。
それから数十年が経って、地球の質量が大きく減り、その分だけ金星の質量が増加していたことが世間を騒がせた。これに関する論文を発表したのは、他でもないササキである。金星人だと自称する老爺がきっかけで、彼は宇宙科学分野での研究を始め、いつしかその筋では大家となっていたのだった。
「これが、最新の金星の地表写真です。大量の水の存在が確認されています。大気の組成も、二酸化炭素が少し多いもののほとんど地球と同様になっています」
発表すると、学会の場はすぐにざわついた。今まで、不毛の地だとされてきた金星が、いつの間にかこれほど豊かな土地となっていたことは、学者たちにとってはとても信じられようもないことだった。しかし、ササキの言ったことは紛れもない事実であった。
「金星の環境がこれほど大きな変貌を遂げた理由については、未だ科学的には分かっていません」
しかし、ササキだけにはその訳が分かっていた。あの日に出会った老爺が、地球の成分を球状にまとめて、遠投するふりをして金星へと送っていたのだ。あの青いボールは、思い返せば地球によく似ていた。
彼は、老爺の言葉を回想する。
――好むと好まざるとに関わらず、君たちもワシらのもとで住むことになるだろうさあ。
おそらく、今もなお地球破壊活動は行われているのだろう。今の地球が、全く使い物にならなくなったとき――、金星が新たな地球となったとき、人類はいったいどうなってしまうだろうか、完全に金星人の支配下に置かれてしまうのだろうかと考える。ササキは堂々としたプレゼンテーションの声の裏で、ひそかに戦慄していた。
【雑多】ショートショート集 鳥海錫子 @Th_Sn
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