辰井圭斗の殺し方

あきかん

徒然

 覚えているだろうか。私を殺す小説を募集します、と自主企画を建てた事を。あの時は悩んだ末に書けなかったのだけれども、今から思えばラブレターはクリティカルな回答だったと思う。

 辰井圭斗という作家に創作をしろと陰に圧をかけるのは、なかなか良い殺し方である。と言うのも、この作家は内に抱えた感情を制御できずに、しかしながら文章には起こせるという稀有な才能を見せているのだけれども、創作に付随する感情をコントロールできないので、それは他罰にも自罰にも向かっていくのだ。

 さて、どうしたもんか。彼の書く文章が好きなので私は懲りずに読むのだけれども、沸き上がる感情を言葉にすることは苦手だ。あーだ、こーだと考えたところで文にはならない。そもそも、今回の発端になったであろう小説は読んでいないので、何がどうしてこうなったかもわからない。

 わからない、と言えば何故か辰井さんに自分は推されていたのだが、その推し方が『よくわからないけど推してます。』みたいな書き方で、推されて嬉しいのは確かだが、辰井圭斗とあろう者が言語化できないとは何故だ?と思っていたことはここに白状しておく。かくゆう自分も、なんで推されてんの?と思っていたので気が合うのかも知れない。

 ついでと言ってはなんだけど、辰井さんに推されていた作品を消した。小説という形はなんか違うな、と思ったので消した訳だけれども、辰井さんには書き上げろと偉そうに述べていたことを消す時に思い出した。

 消した作品の題名は既に覚えていない。ただ『死んでも良いよ。に続く言葉を探している。』というのがテーマだったのは覚えている。

 自分は大分前から死を悲しむ事ができなくなっていた。高校時代に同級生が突然無くなった事がある。その時、まったく悲しく思わなかったのだ。時間がたてば悲しめると楽観的に考えていたのだが、今日に至るまで悲しみを懐くことはなかった。なので、仮に死にたい人がいたとして、『死にたい。』と私に言われたとして、きっと私は『死んでも良いよ。』と答えるだろう。しかしながら、本当に伝えたいのはそれに続く言葉なのだ。ただそれは言葉にならないので、私の口から出てくることはないのだけれども、死んでほしい訳ではない、と思う。死とは何かがよく分からない。


 辰井さんは『作家として死んだ。』と述べていたと思うけど、たぶん作家は死なない。殺されるだけだ。

 三島由紀夫はド派手に自殺したけれど、それで作家三島由紀夫が死んだ訳ではない。自殺すら呑み込んで作家三島由紀夫は完成したのだ。翻って、作家が死ぬ場合とは、例外なく人に殺される時だろう。忘れられ思い出されることも無くなれば、それは作家として死んだと言えるのかもしれない。しかし、死んだ作家と言えども、影響を受けた人々がその作家の某かを引き継いで、新たに作品を世に出すかもしれない。それは子供のように血を受け継いだ物かもしれないし、形を変えて別の作家の中で生き続けていると言えるのかもしれない。

 宛もなくだらだら書いていたら落ちが思いつかない。ここら辺でやめておくか。

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