8-3 暴食令嬢は誓いを味わう

 丁寧に整えられた温室の中に足を踏み入れれば、すっかり感じ慣れた無数の花々の香りがブランシェの鼻をくすぐった。

 普段はバスケットを抱えて訪れる場所だが、今日は何も持っていない。普段はあるはずの重みを感じず、温室の中へやってきたのは少々不思議な気分だった。


(陛下は、もういらっしゃるのかしら)


 内心、首を傾げながらいつものベンチへと向かう。

 もう何度も通った木陰のベンチに、普段いる姿はない。誰もいないベンチの上は空虚で、少しの寂しさを感じさせるものがあった。

 主のいないベンチの上にそっと腰かけ、ブランシェは温室の天井を見上げた。


「わぁ……」


 いつもはヴォルフラムと話しているため、天井を見上げることはあまりしない。

 故にあまり気づいていなかったが、ガラス張りになった天井は太陽の光できらきらと輝いており、日光の優しい温度とともに一種の美しさを振りまいている。一人きりにならないと、ここまでじっくり温室の天井を眺めなかったかもしれない。

 そう考えると、自然とわずかな寂しさがブランシェの胸の中に生まれた。


(治ったからって、すぐに追い出されるようなことはないとは、思うけれど)


 だが、いつかはこの地を離れないといけないのは確定している。

 今、目の前にある温室の風景も。日光とガラスが生み出す美しい景色も。肌を撫でる優しいぬくもりも、鼻をくすぐる花々の香りも。サントゥアリオ国を離れたら感じられなくなるものだ。


「……駄目ね、わたくし。一人になるとどうしても考えちゃう」


 ほうっと息を吐き、ゆるりと目を伏せた。

 一生の別れになるわけではない。なのに、この地を離れなければならないという現実に、どうしても憂鬱な感情を抱えてしまう。

 きゅ、と。甘い痛みを放つ自身の胸の前で、ブランシェは両手を握った。


(まだもう少し)


 叶うのなら、まだ。まだ、もう少しだけ。

 あの人の――ヴォルフラム陛下の、お傍に。


 ブランシェが伏せた瞼の裏に想い人の姿を描いた瞬間、ブランシェのものではない足音が温室の空気をわずかに震わせた。

 音に誘われるまま、ゆるりと目を開ければ、視界に映り込むのは特別に想う人の姿。

 やや大きめのバスケットを片手に温室へ姿を見せたヴォルフラムは、ベンチに座っているブランシェを見た瞬間に表情を和らげた。


「ブランシェ嬢、待たせてすまないな」

「大丈夫、何も問題ありません。どうかお気になさらずに、陛下」


 少々待ったのは事実だが、ぼんやりと考え事をして過ごせるほどの大したことはない時間だ。待ったうちにも入らない。

 ブランシェもヴォルフラムへ柔らかい表情を返し、ベンチからゆっくり立ち上がる。

 数分前まで感じていたはずの胸の痛みも、寂しさも、ヴォルフラムを見た瞬間にどこかへ消え去っていた。


「お茶菓子を準備してからこちらへ来たかったのですが……キッチンが何やら慌ただしくて。何もご用意できませんでした。申し訳ありません」


 ここで会話をするとき、ブランシェはいつも紅茶とお菓子を手に、やってきていた。

 今回もブランシェが何かお茶菓子を用意してくることをヴォルフラムが期待していたとしたら、大変申し訳ないところだ。

 しかし、ヴォルフラムから返ってきた言葉は、ブランシェの予想とは少々異なっていた。


「何、気にすることはない。それに、キッチンが慌ただしかったのも俺のせいだろう」

「……陛下の、ですか?」


 キッチンが慌ただしかったのは、ヴォルフラムのせい――?

 何かをヴォルフラムが命じたからキッチンが慌ただしくなったのだろうが、いまいちブランシェの頭の中で結びつかない。


(何かを作らせていた……? 客人に秘密にする何か? ……ううん、いまいちわからない)


 見えてきそうで、何も見えてこない。

 すっかり考え込んでしまったブランシェを眺め、ヴォルフラムが声を押し殺してくつくつ笑う。

 そして、空いている手をゆっくりブランシェへ伸ばし、優しく手をとった。


「何を用意させていたかは、じきにわかる。こちらの席で話をしよう、ブランシェ嬢」


 ヴォルフラムはそういうと、ブランシェの手を取ったまま歩き出す。

 ここではないならどこで――と一瞬考えたブランシェだったが、彼の足が温室の奥に向いていることに気づき、すぐに思い当たった。

 大人しくヴォルフラムのあとをついていけば、チェルニーが起こした騒動が解決した日に招かれたテラス席が二人の前に姿を現した。


「ここは……以前の」

「あのベンチで話をするのも悪くない。だが、やはり落ち着いて話をするなら、ティーテーブルもあったほうが落ち着くだろう」


 そういったヴォルフラムの手が椅子を引き、ブランシェを座らせる。

 日当たりのいい一角にずっと設置されていたテラス席の椅子は、日光でほどよく温められており、ブランシェの身体に優しい温度を伝えてきた。ティーテーブルも同様に太陽の熱を吸収し、ほんのり適度に温まっている。

 自然がもたらす優しい温度に気が緩み、ほうっと息を吐く。

 だが、すぐに我に返り、ブランシェは慌てて立ち上がった。


「あ、あの、陛下! お茶の準備はわたくしがしますので……!」


 お茶の準備をヴォルフラムにさせるわけにはいかない。

 そんな思いで声をあげたが、ヴォルフラムは軽く笑って再びブランシェを座らせた。


「何、いつもはブランシェ嬢にやってもらってばかりだ。たまには俺に準備を任せてほしい」

「で、ですが」

「それに、今回は。ブランシェ嬢ではなく、俺が準備をしないと意味がない。座っていてくれ」


 最初は穏やかに。最後は真剣な声で。ヴォルフラムが言葉を紡ぐ。

 あまり納得はできなかったが、自分でやらないと意味がないとまでいわれてしまえば、ブランシェもそれ以上は声をあげることができなかった。

 ヴォルフラムにお茶会の準備をさせてしまっている申し訳なさを抱えたまま、上げた腰を再び下ろし、ブランシェは椅子に座り直した。

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