6-3 暴食令嬢は痛みを味わう

 耳に心地よい水音がどこかから聞こえてくる。

 聞こえてくるその音に誘われ、手放していた意識が闇の中からゆっくり戻ってくる。

 伏せられていた目をゆっくりと開き、最初に見たものは心配そうにこちらを見つめるエリサの顔だった。


「お嬢様! よかった、お目覚めになりましたか」

「……エリサ……?」

「はい。エリサです。お身体やご気分は大丈夫ですか?」


 目だけを動かして、ブランシェは今の状況を確認する。

 場所はブランシェに与えられた客室だ。窓がカーテンで覆われ、部屋の明かりがはっきりとしているため、時刻はおそらく夜。ベッドの傍にあるサイドテーブルにはティーポットとティーカップが置かれており、ティーカップの中では見慣れない色合いをした水面が揺れていた。先ほど耳にした水音の正体はおそらくこれだろう。


 全身はふかふかとしたものに包まれており、少し遅れてベッドに寝かせられていることを理解した。

 頭のてっぺんから爪先まで、全身を襲っていた倦怠感や目眩、飢餓感などの異常は、まだ残っているがだいぶ楽になっている。


「エリサ……わたくし、何が……」

「それは私の台詞です、お嬢様。部屋で掃除やベッドメイキングをしていたら、ルビア様が泣き出しそうな顔で飛び込んできて……メリア様も顔を真っ青にしたお嬢様を抱えていて、本当に驚いたんですから」


 困った顔をしたエリサの言葉を聞いて、思い出した。

 そうだ――確か、ブランシェは先ほどまでキッチンにいた。そして、手伝いをすると申し出て、鍋で煮込まれていたスープの味見をした。その瞬間、今、自身の身体を襲っている異常が引き起こされた。

 直前までの記憶をはっきり思い出し、ブランシェの唇から重い息がこぼれる。


「……ひとまず、こちらをどうぞ。先生がお嬢様のために用意してくれました。これを飲んだら身体も楽になるだろうとおっしゃっておりました」


 心配そうにブランシェを見つめていたエリサの手が動き、サイドテーブルに置かれていたティーカップをブランシェへ差し出した。

 爽やかなハーブを思わせる香りと、甘やかな花を思わせる香りが鼻をくすぐる。

 香りを楽しむだけでも、目眩の影響ですっかり悪くなっていた気分が少々よくなり、全身を包み込んでいた倦怠感もわずかに和らいだ気がした。


「ありがとう、エリサ。いただくわ」


 エリサの手からティーカップを受け取り、中身を口にする。

 味わい慣れないが、どうやらハーブティーや薬草茶に近いもののようだ。爽やかな香りがするハーブの味と薬草を思わせる苦味、そして少しの甘い風味がブランシェの舌に広がる。

 独特の味わいがあるお茶をじっくり舌先で転がし、楽しんで、飲み込んでいく。

 一口、二口と飲んでいくうちにブランシェを苛んでいた症状はどんどん軽くなる。ティーカップの中身が空っぽになる頃にはすっかり楽になっていた。


「……本当に身体が楽になったわ。このお茶、一体何なのかしら」

「サントゥアリオ国で、体調を崩した際によく飲まれる薬草茶だそうです。魔力の流れを整える効果があるそうで、運び込まれてきたときのお嬢様の魔力は乱れていたそうで……。しばらく飲み続ける必要があるそうなので、ちゃんと飲んでくださいね」

「わかった。本当にありがとう、エリサ」


 かちゃり。ティーカップの底がソーサーと触れ合い、わずかな音が奏でられる。

 ブランシェが置いたティーカップをソーサーごと素早く回収してから、エリサは再びブランシェをまっすぐに見つめた。


「それで……お嬢様。何があったのか、改めてお聞きしてもよろしいでしょうか」


 真剣な表情。真剣な声色。

 何があったのか知りたいと訴えてくる彼女の目を見つめ返し、何があったのか語るため、ブランシェは唇を動かした。


「突然のことだったから、わたくしにも何があったのか、まだ把握しきれていないところがあるの。でも、キッチンで煮込まれていたスープを飲んだとき、体調が悪くなったことははっきりしてる」

「スープを……ですか?」


 問い返してくるエリサへ、大きく頷く。


「ええ。キッチンへお手伝いに入ったとき、すでに鍋でスープが煮込まれてたの。わたくしはその鍋の様子を見ていて、一度味見をしたんだけど……そのときに、何か……変な味がして」


 口元に手を当て、もう一度あのときの味を思い出す。

 コンソメや野菜、ベーコンの旨味の中に隠された、奇妙な味。

 塩のようでいて、胡椒のようでいて、そのどれでもない。天然の味を巧妙に真似た人工物の味。本来の風味を隠すためにつけられたフレーバー。

 じわじわと舌先によみがえってくる味に、思わず眉根を寄せる。


「すごく巧妙に隠れていたけれど、あれは人工的に作られた味だと思うの。そう、まるで……薬の苦味をごまかすためにつけられた味みたいな」


 あのとき、味の正体を探っているときも感じたことだ。

 薬の苦味や本来の味を感じにくくし、飲みやすくするためにつけられたフレーバー。非常によくできていたが、そんな違和感を覚えるものだった。

 静かにブランシェの話を聞いていたエリサの表情も険しくなる。


「薬……?」

「正体がはっきりわかっていないけれど、そう感じたの」


 もし、あの味の正体が何らかの薬だったとしたら。

 あのとき作られていたスープには、何者かが何らかの薬を盛っていたということになる。

 それが容易にできるのは、普段からキッチンに出入りしているメイドやシェフといった使用人たち。だが、ヴォルフラムを慕っている彼ら、彼女らがそんなことをするとは思えない。


 だとすると、第三者が何らかの方法を使って薬を入れたということになる――しかし、何のために?

 まだはっきりしている点が少なく、憶測に憶測を重ねることしかできないが、これだけは明確にわかっている。


「穏やかな話ではありませんね」

「ええ、本当に」


 本当に――穏やかな話ではない。

 一人、静かに目を細め、ブランシェは唇を横一文字に引き結んだ。


 こんこん。


 ふいに、ノックの音が響き渡る。

 緊迫した空気に満ちた客室に響いたそれは、ブランシェとエリサの意識を一度そちらに向けさせた。


「どなたでしょうか」


 ブランシェが扉の向こう側へよびかける。

 一枚の扉の向こう側から返ってきた声は、ブランシェもエリサも聞き覚えのあるものだった。


「アーヴィンド・ディリアスです」

「ディリアス様?」


 きょとん、とブランシェは一度瞬きをしたのち、エリサへ視線を向ける。

 ブランシェからの視線を受けたエリサは、無言で扉の傍に移動し、ゆっくりと扉を開いた。

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