第六話 暴食令嬢は痛みを味わう

6-1 暴食令嬢は痛みを味わう

 ふわふわとしたような、なんともいえない気持ちが胸の中いっぱいに広がっている。

 自身の中で育ち続ける感情が、いつ頃芽生えたのかはわからない。あとからあの瞬間だったかもしれないと考えても、全て後付けにしか過ぎない。

 気付いた頃にはすでに芽生えていて、自覚した頃にはすでに大きなものへ育っていた。

 何度もヴォルフラムの声を繰り返し思い出しながら、ブランシェはほうっと息を吐いた。


(今日も格好よかったなぁ、陛下……)


 鋭い瞳で周囲を見渡し臣下たちに命令を下す姿も、好きな料理を口にした瞬間見せるわずかに緩んだ表情も、どれもが魅力的で輝いて見える。

 これまでも恋のようなものをしたことはあるが、ここまで強く誰かを想う恋ははじめてだ。

 廊下に敷かれた絨毯を踏みしめ、歩く足取りが自然と軽くなる。


(陛下のためにも、美味しいケークサレを焼けるようにならなくちゃ)


 部屋に戻ったら、レシピをしっかり確認しておかなくては。

 食事を終えたあとの予定を脳にメモした直後、覚えのある香水の香りがブランシェの鼻をくすぐった。

 この香りには覚えがある。ありすぎるほどだ。

 だって――今日、昼間に嗅いだばかりなのだから。


「あら、シュネーフルール様」


 次の瞬間、ブランシェの耳に予想通りの声が届いた。

 キッチンに向かっていた足を止め、ゆるりとした動作で振り返る。

 見慣れないメイドを連れて優雅に廊下の奥から歩いてくる姿は、今日新たに目にしたばかりの相手のものだ。


「ベルニエ様。またお会いしましたね」

「そうね。短い時間の間に、また会うとは思ってなかったわ」


 かつん、こつん。チェルニーの足を彩るヒールの音が廊下に響く。

 チェルニーはブランシェとの間に空いていた距離を詰めながら、言葉を続ける。


「とはいっても、私はもうここを離れるつもりだけれど。突然の訪問で陛下に迷惑をかけるわけにはいかないし、陛下のお顔も見れて満足したもの。また明日、ゆっくりお話に来るつもり」


 迷惑をかけている自覚はあったのか。

 心の内側で、ひやりとした感情が広がっていく。

 その感情に引っ張られて真顔になりかけた表情を動かし、ブランシェはゆるりとした笑顔を浮かべてみせた。


「あら……では、帰り道はどうかお気をつけて。少々お話ができて嬉しかったです」

「こちらこそ」


 短い言葉を交わし、ブランシェは丁寧にチェルニーへ頭を下げた。

 チェルニーも同様に一礼し、ブランシェの傍を通り過ぎ、ブランシェが向かう方向とは逆に向かって歩く。

 すれ違う、その一瞬。


「あまり調子に乗らないことね」


 耳元に悪意が満ちた声が吹き込まれた。


「陛下は私のものになるんだから」


 敵意と悪意に満ちた言葉が鼓膜を震わせ、ブランシェの心を苛む。

 ブランシェがとっさに振り返っても、チェルニーはこちらを振り返らずにメイドたちを引き連れて廊下の奥に歩き去っていった。

 彼女の背中が完全に見えなくなったあとも、ブランシェはその場に立ち尽くしていた。

 耳の中で、吹き込まれた悪意に満ちた言葉が反響している。


『あまり調子に乗らないことね』

『陛下は私のものになるんだから』


 ぎ、と唇を噛み、低く唸るような声で一人、呟く。


「……そこに、陛下の意志はちゃんとあるのかしら」


 ヴォルフラムの意志がきちんと含まれているのなら、ブランシェも何もいわない。

 だが、ヴォルフラム本人からチェルニーは婚約者ではないという情報を得ているのもあり、チェルニーが口にした言葉にはヴォルフラム本人の意志が含まれていないように聞こえた。

 脈打つような痛みが引き、かわりにもやもやとした渦巻く怒りが広がっていく。

 灼熱を思わせる熱を忘れるため、一度頭の中をリフレッシュするため、手のひらの内側に爪を立てて握り込んだ。


 爪が柔らかい肉に食い込み、鋭い痛みを放つ。

 痛みが走ったのはほんの一瞬。だが、怒りに満たされた頭の中を一度強制的にリセットするには十分だった。


「……急がなくちゃ」


 そろそろ夕食の準備に入る時間だ。

 ケークサレをいつか作ることを伝えておかないといけないし、できればルビアたちが料理の準備をするのを手伝いたい。

 もやもやとした気持ちを振り払い、ブランシェはキッチンに続く道を少々早足で歩いていく。


 間もなくしてたどり着いたキッチンは、少しだけだが、すでに忙しそうな空気で満ち始めていた。

 こつり。ブランシェのブーツが奏でた音にいち早く反応したのは、長い耳が特徴的なルビアだ。


「あっ、シュネーフルール様!」


 ルビアが声をあげた瞬間、その場にいた全員の視線がこちらに向いた。

 ルビアは嬉しそうに。メリアは目を輝かせて。ヴィルダはどこかほっとしたような顔をして。それぞれが瞳にブランシェの姿を映す。キッチンで働いている他のメイドやシェフたちも、ブランシェの姿を見た途端に表情を緩ませた。

 数日の間ですっかり親しくなった彼ら、彼女らに笑顔を向け、ブランシェはキッチンの中に足を踏み入れた。


「忙しくなる時間帯にごめんなさい。ちょっとお願いと……お手伝いをしたいなと思って。駄目かしら?」

「えっ、今日もお手伝いしてくれるんですか? なんだか申し訳なくなっちゃいますけど……」


 ルビアが目を丸くして、苦笑いを浮かべる。

 王宮の空気にすっかり馴染んでいるブランシェだが、立場は療養に来ている客人だ。彼らや彼女たちからすると、客人に自分たちの仕事を手伝ってもらっている状況になる。

 少し思うところがあるのだろうが、それを押し切るようにブランシェが言葉を紡ぐ。


「わたくし、ここのみんなにお世話になるばかりでしょう? だから、できれば定期的にお手伝いをしたいの。それに、みんなとは陛下のためにお食事を用意した仲でしょう?」

「んー……い、いわれてみればそうなんですよね……。うーん……じゃあ、ちょっとだけ! ちょっとだけですからね!」

「ええ。ありがとう、ルビア」


 ルビアが悩んだ末、丸めていた頭部の耳を再びぴんっと伸ばした。

 ちょっと苦笑を浮かべつつも許可を出してくれたルビアへ感謝の言葉を告げつつ、ブランシェは髪を一つにまとめ、エプロンを身に着けた。袖もまくり、手早く調理の手伝いに入ることができるよう準備を整える。


 今日のメニューはどうするのか、シェフの一人に確認をとってから、キッチンに立つ。

 すでに煮込まれているスープの状態を確認し、鍋の中でじっくり煮込まれているスープをぐるりとかき混ぜた。

 ルビアに続き、ブランシェに声をかけたのは野菜を切る作業をしているヴィルダだ。


「ちょっとお願いっていうのは、やっぱり陛下が絡んでるお願い事です?」

「ええ。陛下に食べたいものはあるか聞いてみたら、ケークサレが食べたいそうで。今日は難しいけれど、近々夕食にケークサレをお出ししたくて……大丈夫かしら」

「それくらい大丈夫ですよ、問題ありません! なら、俺たちもケークサレを出すことを前提としたメニューを考えておきますね」

「ありがとう、ヴィルダ」


 野菜を切っていく手を止めず、ヴィルダが笑顔を浮かべる。

 快活な印象のある笑顔に一度頷いてから、目の前にある鍋に向き直った。

 鍋の中で煮込まれる黄金色のスープには一口サイズに切られた野菜が浮かび、しょくよくを誘うコンソメの香りを漂わせながら黄金色の海の中で揺れている。ベーコンや茹でられたマカロニも一緒に泳いでおり、見ているだけで空腹が刺激される。


「これって味見はしてある?」


 傍にいたシェフに一言、問いかける。


「一度してありますけど……シュネーフルール様もよかったらお願いします。煮込んでるうちに味が変化してしまった可能性もありますし」

「そう? なら、わたくしも一度味を見ておくわ」


 ブランシェに声をかけられたシェフは、少々悩んだ末にそういった。

 彼に言葉を返したのち、ブランシェは豆皿に少しだけスープを入れ、そっと口に運ぶ。

 舌に触れたスープには野菜とベーコンの旨味が溶け出しており、深いコクを楽しめる。一緒に煮込まれている具材やマカロニと一緒に食べれば、また違った印象になるだろう。

 空腹を満たしてくれる味。王宮にいるシェフたちの腕がはっきりとわかる味わい。


「……?」


 しかし、その中に混ざっている何かが、ブランシェの舌に触れた。

 塩のようで、胡椒のようで、けれどそのいずれとも異なる印象のある味。なんともいえないその味がコンソメスープの邪魔をしており、思わず眉根を寄せた。

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