5-3 暴食令嬢は亀裂を見る
綺麗に整えられた庭の奥に、静かに存在しているガラス張りの温室。
ブランシェがはじめてヴォルフラムと一対一で会話をしたこの場所は、今日も暖かな空気で数多の植物を育んでいる。王宮の中はひりついた空気で満たされていたが、この中は普段どおり穏やかで、少しだけ気持ちが軽くなる。
「陛下?」
手に持ったバスケットをしっかり持ち、しんと静まり返った温室へ呼びかける。
アーヴィンドの囁き声が確かなら、ここにヴォルフラムがいるはずだ。しかし、ブランシェが宙に投げた声に反応するものはなく、静寂の中に溶けて消えていくだけだ。
「陛下。ブランシェ・シュネーフルールです」
首を傾げ、改めて虚空へ呼びかける。
しかし、やはり返事が返ってくることはなく、ブランシェの声は温室の空気に溶けていった。
(もうどこかに移動されたのかしら)
もしそうだとしたら、かなりの時間、ヴォルフラムを待たせてしまったことになる。
キッチンにいたルビアやメリア、ヴィルダたちにも手伝ってもらい、できるかぎり早く支度をして来たつもりだが、とても申し訳ない。
(一度、温室の中をざっと見て回ろう)
一人頷き、ブランシェは温室の奥に向けて歩を進めた。
吊り棚に飾られた花々や美しく整えられた低木を眺めながら、迷いのない足取りで進んでいく。
間もなくして見えてきたベンチの上。青々とした木の葉が茂る木の下に設置されたそこには、ずっと探していた人物の姿があった。
まだ移動していなかったことに内心ほっとしつつ、ブランシェはベンチに座って目を閉じているヴォルフラムへと近づいた。
「よかった。まだいらっしゃったのですね、陛下」
「……呼んだのは俺だ。お前を呼んだのに場所を移動したら失礼極まりないだろう」
低く、落ち着きのある声がブランシェの耳に届く。
瞼がゆっくりと持ち上がり、金と銀の瞳が姿を現す。きろりと動き、ブランシェの紫色の瞳を見つめる。
出会った直後は冷たさばかりを含んでいた瞳も、何度か言葉を交わし、食事をともにするうちに鋭さや冷たさはかなり和らいだ。金と銀の瞳が声に反応してブランシェを見やり、わずかに目元を緩ませる瞬間をブランシェは気に入っている。
「ブランシェ嬢の声は聞こえていた。だが、本当にブランシェ嬢なのか不安があったため、だんまりでこちらに向かってくるのを待っていた。すまなかったな」
「いいえ、お気になさらないでくださいませ。わたくしのほうこそ、陛下の下へまいるのが遅くなってしまい、申し訳ありません」
「いい。俺がいきなり呼びつけたのだから、ブランシェ嬢は何も気にしなくていい」
素っ気なさと温かさが混在した声で、ヴォルフラムがいう。
その後、いつかのときのように彼の手がベンチを叩き、ブランシェに着席を促した。
彼に促されるまま、一言断ってからベンチに腰かけ、ブランシェは手に持っていたバスケットを自身の膝へのせた。
「しかし……わたくしであると確信するために、即座に返事をするのを避けるとは。何故、わざわざそのようなことを?」
ブランシェがここに来てから数ヶ月が経っているが、今までのヴォルフラムは呼びかけたらすぐに返事をし、何かしらの反応をしてくれた。臣下や信頼できる相手であれば、その反応はより早いものになる。
ブランシェに対しても、最近はそれなりの早さで返事をしてくれていた。なのに、今日はブランシェがヴォルフラムの傍に来るまで返事をしてくれなかった。
まるで、何かを警戒しているかのような反応だ。
「もしかして、ベルニエ様の来訪と何か関係がおありなのでしょうか」
ブランシェの脳裏に、数分前まで言葉を交わしていた令嬢の姿がよみがえる。
ヴォルフラムの婚約者だと自称していた彼女。
彼女が来た途端、ヴォルフラムの態度が少々変化した――ということは、彼女が王宮にやってきたことは全くの無関係ではないはずだ。
即座に思考を巡らせて問いかけた瞬間、ヴォルフラムの指先がわずかに動き、みるみるうちに不機嫌そうな顔へ変化した。
「……あいつと会ったのか」
「少々声をかけられ、お話しました。ベルニエ様は自身が陛下の婚約者だとおっしゃっておりましたが……」
「断じてない」
きっぱりとした声色で、ヴォルフラムが言葉を返した。
わずかな苛立ちすら感じさせる声は、それが照れ隠しでもなんでもないことを表している。
「過去に婚姻の話が出たことはあるが、受け入れた覚えはない。しっかりと断っている。あの女、そんな嘘を口にしていたのか……」
はああ、と深い溜息をつき、ヴォルフラムは顔をしかめた。
苛立ちのほか、この場にいない人物へわずかな憎しみさえのせた表情は凶悪だ。見る者によっては震え上がりそうだが、ブランシェの中に恐怖が芽生えることはなかった。
むしろ、チェルニーが口にしていた言葉が嘘であるとヴォルフラム本人が否定してくれたことに安堵を覚えた。
「ということは、あれはベルニエ様の自称なのですね。どうしてわざわざそんなことを」
「わからない。早いうちになんとか王宮を離れてもらう予定だ。それまでは不快な思いをさせる可能性があるが……」
深く息を吐きだしたヴォルフラムの表情が、苛立ちから疲労感のあるものへ切り替わる。
うんざりしたようにも、疲れ切っているようにも見える彼の姿は、見ていて少々不安になるものがある。
「いえ、わたくしのことはお気になさらないでくださいませ。陛下はご自身のお身体とお心を大事にしてくださいな」
「……あまり無理はしないようにする、が。定期的にブランシェ嬢が作ったものが食べたい」
とくん。
ブランシェの心臓が大きく跳ね、普段よりもわずかに速いリズムで鼓動を打つ。
それに伴い、普段より血液の巡りもよくなり、顔に熱が集まってくるのを感じた。
ヴォルフラムからするとなんでもない一言なのかもしれないが、彼が口にした言葉はブランシェにとって、非常に嬉しいものだ。
気分転換の方法に自分が作った料理を食べるという方法を選んでくれたのも、定期的に食べたいと口にしてくれたことも。嬉しくて仕方ない。
「それで陛下のお心が楽になるのであれば、喜んで」
一回、二回、静かに深呼吸をする。
浮かれていた心を落ち着けてから言葉を返すと、ブランシェは膝の上に置いていたバスケットを開けた。
ふんわりと広がった甘さを含んだ香ばしい匂いが二人の鼻をくすぐる。
先ほどまでの疲れた表情を見せていたヴォルフラムが目を瞬かせ、ぱっとわずかに表情を輝かせた。
「……甘いものか」
「本日は、とりあえずこちらをどうぞ。少々急いで作りましたが、味には自信がございます。……もし、甘いものが苦手であれば、無理には」
「いや。普段はあまり口にしないが、苦手というわけではない」
だから、食べる。
はっきりと口には出さず、けれど食べる意思表示は忘れずに。
少々わかりにくいヴォルフラムの意思表示を感じ取り、ブランシェはわずかに笑みを浮かべながら持ってきた焼き菓子を彼へ差し出した。
さまざまなドライフルーツを混ぜ込んで焼いたパウンドケーキだ。表面はやや濃いめに、内側は黄金色に焼き上がっており、見ただけでかなりの満足感があると伝わってくる。食べやすい大きさに切られているため、口に運びやすい。
「どうぞ。今、紅茶も用意しますので」
少々お待ちくださいと続くはずだった言葉は、最後まで続かなかった。
ヴォルフラムとの間にあった距離が零になり、すぐ近くで夜闇の色をした髪がふわりと揺れる。
「……ああ、悪くないな」
ぽかんとした顔をしているブランシェに対し、ヴォルフラムはゆっくりと数回口の中にあるものを咀嚼し、飲み込んで感想を口にしている。
ブランシェが差し出していたパウンドケーキは、ちょうど一口分がかじり取られている。
差し出した分を受け取るのではなく、かじりついた――やや遅れてブランシェの脳が目の前の現実を認識した瞬間、ぼっと顔に熱が集まった。
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