5-2 暴食令嬢は亀裂を見る

 客室を出て最初に感じたのは、ひりつく空気だ。

 ヴォルフラムがピリピリした雰囲気になると聞いていたが、彼一人だけではない。王宮全体の空気がどこかピリピリしているように感じる。


(ピリピリするのは陛下一人だけではなさそう)


 ふ、と目を細め、ブランシェは唇を真横に引き結ぶ。

 ヴォルフラム一人だけ張り詰めた空気になるのなら彼一人だけに絞れるが、他もピリついた空気になるのなら、サポートの難易度は一気に上がる。

 別にヴォルフラムだけのサポートに回ってもいいのだが、できるならお世話になっている彼の臣下たちの心の負担も和らげたいところだ。


「結構な数を作らないといけなさそうだし、ルビアたちにも手伝ってもらおうかしら……」


 ヴォルフラムに関することですっかり親しくなった使用人たちなら、手伝ってくれるかもしれない。

 一人で頷き、ブランシェは止めていた足を動かし、キッチンのある方角へ向けて一歩を踏み出した。

 廊下をいくら進んでも、肌を刺すようなピリピリとした空気は変わらない。

 本当に、この王宮に何が起きたのだろうか。少し前までは穏やかだったはずなのに、短期間で正反対になるほど変化するのは――何かが、おかしい。


「ねえ、ちょっと」


 ふいに。

 ブランシェの背中に声が投げかけられた。

 反射的に足を止め、振り返る。


「あんた、前にはいなかったわよね? 新しい使用人? それにしては、メイド服を着てないけど」


 ブランシェを呼び止めたのは、見慣れない少女だ。

 ぱっと見た印象では、ブランシェと近い歳。すらりと伸びた背筋が凛とした印象を与え、肌に施されたメイクが大人びた魅力を作り出している。少女と女性の中間にある身体を包み込んでいるのは、豪奢な印象のあるドレス。スカートの部分にパニエを入れて、ふんわりとしたシルエットにしている。手入れの行き届いた長い髪は甘く巻かれ、少女らしい可愛らしさと女性らしい大人っぽさのある印象にまとめていた。


 だというのに、ブランシェを見る目つきは鋭く、敵意のようなものすら見える。せっかく一つの雰囲気でまとめられているのに、彼女の目つきのせいでどこかちぐはぐに見えてしまう。

 数ヶ月ほど王宮で過ごしたなかで、一度も目にしなかった姿。


「……お初にお目にかかります。わたくしはブランシェ・シュネーフルール。訳あってここ、サントゥアリオ国に療養を目的として滞在させていただいております」


 感じた疑問は口に出さず、まずはスカートをわずかに持ち上げてカーテシー式のお辞儀をする。

 頭を下げた姿勢のまま、ちら、と声をかけてきた少女を見る。

 彼女はブランシェに向けられていた鋭い視線を和らげ、わずかにきょとんとした顔を見せていた。


「シュネーフルール? ……って、あのシュネーフルールかしら。あんた、クォータリー国から来たの? 私以外に魔族の国に来る人間なんていたのね」


 きょとんとした顔をしていたのも、ほんの少しの間だけ。

 ブランシェがゆっくり頭をあげる頃には、彼女の顔は自信に満ちた表情へ切り替わっていた。


「私はチェルニー・メラン・ベルニエよ。フリューリング国から来た、ヴォルフラム陛下の婚約者よ」


 胸に手を当て、得意げな声色と表情で目の前の彼女はそういった。

 桜色の唇から紡がれた一言がブランシェの心を深く抉る。


(……婚約者?)


 特別おかしな話ではない。

 ヴォルフラムは王族だ、婚約者がいても何もおかしくはない。むしろ、婚約者がいないというほうが国民に不安を与えてしまうだろう。

 ブランシェが知る令嬢の中にも、他国の王族に見初められて嫁いでいった者はいる。


 何もおかしい話ではない――頭では理解しているのに、心は鋭い痛みを繰り返し主張していた。


 脈打つ痛みを飲み込み、押し隠し、ブランシェは曖昧に笑う。


「ベルニエ様とおっしゃいますのね。よろしくお願いいたします」

「こちらこそ。で、シュネーフルール様。ヴォルフラム陛下をお見かけしなかった? 私、陛下に会いたくて来たのに、全然お姿を見ないのよ」

「申し訳ありませんが……わたくしも、本日はまだお姿を見ておりません。ご公務を邪魔してしまってはいけないと思い、自由に過ごしていたところですので……」


 一部だけ嘘だ。朝に一度、食事の際にヴォルフラムの姿を目にしている。

 そのときの彼はまだ穏やかな様子だったし、王宮の空気もこんなにひりついていなかったはずだ。その後、診察を受けたあとには、今のような空気に満ちていた。

 素直に答えてもいいはずなのに、気がついたときには、嘘と真実を織り交ぜた答えを口にしていた。


「ふぅん。それじゃあ、執務室のほうかしら。行ってみようかしら」

「……さすがにそれは」


 ご公務の邪魔になってしまうのでは――?

 わずかに眉間へシワを寄せ、ブランシェがそういおうとした瞬間。


「ベルニエ様」


 ブランシェのものでも、チェルニーのものでもない声が響く。

 直後、ブランシェのすぐ傍でわずかに魔力の気配がする。瞬きを一つした瞬間、ブランシェの傍にアーヴィンドの姿が現れた。


「ここにいらっしゃったんですか、ベルニエ様。応接室からお姿が見えなくなったので、本当に驚きましたよ」

「ディリアス様」

「アーヴィンド様!」


 ブランシェとチェルニーが同時にアーヴィンドを呼ぶ。

 先ほどまでブランシェに見せていた敵意を隠し、チェルニーはにこにこと笑顔でアーヴィンドを見ている。

 対するブランシェは、表向きは普段どおりの顔をしつつ、内心ではチェルニーに対して顔をしかめていた。

 自信に溢れた態度はまあいい。本人の性格からくるものだ。


 しかし、無断で応接室を離れて勝手にヴォルフラムの姿を探すというのは――いくら婚約者でも、あまり良い行動とはいえない。ヴォルフラムを探すにしても、せめてアーヴィンドが来るまでは待つべきではないのか。

 なんともいえないモヤモヤがブランシェの胸の中に広がる。


「だって、一刻も早く陛下にお会いしたかったんですもの。陛下はどちらに?」

「今は町のほうへ視察に行かれています。戻るまで応接室のほうで少々お待ちください。その間、私がお話相手を務めさせていただきます」

「ふぅん……。陛下にすぐお会いできないのは残念だけど……仕方ないわね。アーヴィンド様がお話してくれるのなら、退屈な思いもしないはずだし」


 ブランシェが一人でなんともいえない感情を抱えている間にも、チェルニーとアーヴィンドの会話は進んでいく。

 一瞬つまらなさそうな様子を見せたチェルニーだったが、話し相手がアーヴィンドとわかった瞬間、ぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。

 可愛らしい笑顔なのに、ブランシェの目には何か裏のある笑顔に見えて仕方がなかった。


「そういうわけですので……お話の途中に割り込んでしまい、申し訳ありませんでした。シュネーフルール嬢」


 つぃ、とアーヴィンドの視線がこちらへ向けられる。

 彼の声ではっと我に返り、ブランシェも表情を緩めて返事をした。


「いいえ、お気になさらないでくださいませ。ベルニエ様、お話にお付き合いいただき感謝いたします」

「あら、ちゃんと礼がいえるのね。こちらこそ、ありがとう。それじゃあ」


 チェルニーが先に一歩を踏み出し、ヒールの音を鳴らしながら廊下を歩く。

 アーヴィンドもブランシェへ一礼したあと、彼女の背中を追いかけて一歩を踏み出した。

 そのとき。ブランシェの傍を離れる直前。


「――何か即座に食べられるものを持って、庭の奥にある温室へ」


 耳元でアーヴィンドの囁き声がした。


「我らが主君がお待ちです」


 一方的に言葉を告げ、アーヴィンドは少々早足にチェルニーの傍へついた。

 どんどんブランシェの傍から離れていく二人の背中をぽかんとした顔で見つめていたが、やがて我に返り、ブランシェも少々早足で移動を再開した。

 詳細をアーヴィンドに尋ねることはできなかったけれど、ヴォルフラムが呼んでいるそのことだけは、はっきりと理解できた。

 キッチンに向かうのは同じだけれど、予定変更。ひとまず、待ってくれているであろう彼を満足させられる何かを用意しなくては。

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