3-3 暴食令嬢は言葉を交わす
木の葉の影が落ちるベンチに、ヴォルフラムが横たわっている。冷たさを感じさせる黄金と白銀は瞼の下に隠され、夜闇を溶かし込んだ髪が木の葉の隙間から漏れ出た光に照らされている。どうやら仰向けの姿勢で眠っているようで、胸が静かに上下している。
「……陛下?」
まさか、ここにヴォルフラムがいるとは。
内心驚きつつも、ブランシェは静かな声でヴォルフラムへ呼びかける。
しかし、特に反応は返ってこなかった。
「お疲れだったのかしら……」
起こさないよう気をつけながら、極力静かにヴォルフラムへ近づいていく。
よほど深い眠りの中にいるのか、ブランシェがすぐ傍までやってきても、彼は寝息をたてるばかりだ。
確かにここは昼寝にはちょうどいい。程よい日当たりと温かさがあり、何より静かだ。
けれど、ここは寝る場所として作られた場所ではない。日が落ちてもある程度の温かさは保たれるだろうが、あまりに長時間眠っていたら体調を崩すおそれがある。
起こすか、起こさないか。頭の片隅で考えながら、ブランシェはじっと眠るヴォルフラムを見つめていた。
最初に会ったときは気づかなかったことが、こうして間近で観察することによって見えてくる。
「……顔色が悪い」
白いを通り越して、いっそ青白く見える肌。
目の下にはうっすらとクマのような黒ずみができており、余計に顔色が悪く見える。
こんな顔をして日々執務をこなしているのだとしたら、アーヴィンドや使用人たちが心配するのも頷ける。
くしゃりと表情を歪め、思わずヴォルフラムの頬に触れた瞬間、彼の手が素早く動いた。
「!」
乾いた音とともに、ブランシェの手首が大きな手で包み込まれる。
突然のことに驚いて肩を揺らした直後、伏せられていた瞼がかすかに動く。ゆっくりとした動作で金と銀の瞳が開かれ、ブランシェへと向けられた。
「……シュネーフルール嬢か」
寝起き特有のかすれた声で、ヴォルフラムがブランシェの名前を口にする。
その声ではっと我に返り、ブランシェはふわりと表情を柔らかく緩めた。
「ええ、ブランシェ・シュネーフルールです。お休み中だったところを起こしてしまって申し訳ございません、陛下」
「……いや、いい。どうせ一度目が覚めるだろうと思っていた。……寝てもだいたいすぐに目が覚める」
ため息まじりに言葉を紡ぎ、ヴォルフラムが起き上がる。
ブランシェの手首を掴んでいた手を離し、ベンチに座り直すと、空いた自身の隣を手で軽く叩いた。
着席してもいいということだろうか――少しだけ考えたのち、一言断ってから、ブランシェは彼の隣に腰かけた。
「陛下、よくお休みになれませんの?」
「……。……ああ。あまり、よく眠れない。起きていたら起きていたで腹が減る、かといって眠ってごまかそうと思っても満足に眠れない」
わずかな沈黙を挟み、ヴォルフラムは心底うっとうしいと言いたげな声色で返事をした。
起きていたら空腹感を覚える、空腹感をごまかすために寝ようとしても寝付けない。今でこそは食べたら空腹が満たされるが、シュネーフルール領にいた頃は夜になるたびに味わっていた感覚だ。
同じ症状で長く苦しんでいたブランシェだからこそ、どのように対処したらいいのか、理解している。
膝の上にバスケットを乗せ、カップへボトルから紅茶を注ぎ、ヴォルフラムへ差し出しながら口を開く。
「陛下。最後にお食事を召し上がったのはいつ頃ですか? どれくらいの量をお召し上がりになりました?」
氷のように冷たい瞳がブランシェへ向けられる。
言葉に出していないが、ヴォルフラムが考えていることは予想ができる。
なぜ、それをお前に伝えなくてはならない――はっきりとそう語ってくる瞳を見つめ返し、ブランシェは言葉を重ねる。
「今の陛下の顔色はあまりよろしくありません。それに、わたくしは陛下を悩ませている症状に覚えがあります」
「……ほう?」
ヴォルフラムの瞳から、わずかに冷たさの色が抜ける。
かわりに、わずかな興味の色が黄金と白銀の奥できらめいた。
なかなか紅茶を受け取ろうとしない彼の手に、紅茶が入ったカップを握らせながら、ブランシェはさらに続ける。
「わたくしは、現在ファミン症を患っています。そのせいで、領地にいた頃は十分な食事をとっても満たされず、いつも空腹感に悩まされておりました。もっとも症状が重くなったときは、強い空腹感で満足に眠ることもできないほど」
ぴくり。ヴォルフラムの指先がわずかに動く。
「……陛下が先ほどおっしゃった感覚は、それと非常によく似ております。それによる苦しみも、わたくしはよく知っています。だからこそ、陛下を心配しているのです」
一度言葉を切り、ブランシェは軽く息を吐きだした。
静かに深呼吸を繰り返し、もう一度ヴォルフラムへ問いかける。
「もう一度お尋ねします、陛下。最後にお食事を召し上がったのはいつ頃で、どれくらいの量をお召し上がりになりましたか?」
しん、と沈黙が温室を包み込む。
少しの重苦しさを感じさせる沈黙だが、ブランシェは無言で目の前にいる魔族の王を見つめ続ける。
すぐに目をそらしてしまいたくなるほどの威圧感だが、ブランシェの心が今はそらすべきではないと大声で叫んでいた。
たった数分程度、しかし数時間に感じさせる時間。無言でブランシェを見つめるだけだったヴォルフラムの視線が動き、ブランシェからそらされた。
「……朝にパンとスープを少し。あとは細々と軽くつまめるものを食べたが、それだけだ」
ヴォルフラムの声がブランシェの耳に届く。
一瞬だけきょとんとしてしまったが、彼が答えたのがヴォルフラム自身の食事状況と理解した瞬間、光が差し込むように心の中が明るくなった。
ゆるりとした動作で、ヴォルフラムはブランシェが持たせた紅茶に口をつける。
「……ルビアが淹れたものか」
舌の上で紅茶を転がしたのち、ヴォルフラムがとても小さな声で呟く。
「ええ。よくおわかりになりましたね。朝、ルビアさんと少しお話をして……そのときに持たせてくれました」
「あの子が淹れる紅茶は、ほんの少しだが渋みが強いからよくわかる。起き抜けにはちょうどいい味だ」
そういうと、ヴォルフラムは再び紅茶を口に運ぶ。
じっくり紅茶の味を楽しむ彼の横顔を少しだけ眺めたのち、ブランシェは表情を緩めてバスケットの蓋を開けた。
中から取り出すのは、使用人たちと一緒に作ったサンドイッチだ。
「よければこちらもどうぞ。もう少し何かお腹に入れておいたほうがよろしいかと」
ブランシェの手の中にあるサンドイッチは、メリアが作ったものだ。
ほんのりと焼いたパンにオーロラソースを塗り、レタスやトマトと一緒に厚切りの焼いたベーコンを挟んだ食べごたえのあるものだ。見慣れないピクルスも挟んであるが、サントゥアリオではよく食べるものらしいので、これならヴォルフラムの口に合うに違いない。
ちらり、とヴォルフラムの目が再びブランシェへと向けられる。
「……あいつらに作らせたのか?」
「少々違います。確かに作ってもらったのもありますが、これとこれはわたくしが作りました。一緒に作りませんかとお誘いしましたの」
「……あなたも、作ったのか?」
ヴォルフラムがわずかに意外そうな顔をした。
彼がそのような反応を見せるのも当然だろう。クォータリー国で過ごしていた際も、ほとんどの令嬢や子息はブランシェが使用人とともに料理を作ることがあると知った瞬間、驚いた顔をしていた。
彼が最後に触れた人間の令嬢が例のワガママなタイプなら、そちらのイメージが強いため、余計に驚くことだろう。
ほんの少しだけ見開かれたヴォルフラムの瞳の中で、ブランシェが得意げそうに胸を張る。
「もちろん。シュネーフルール家には、自身のお客様には自らの手で作ったものを振る舞うというしきたりがあります。将来のため、わたくしも実家にいた頃は定期的にキッチンへ立ち、料理の練習をしておりました。だから、料理にはちょっと自信があります」
もちろん、料理を生業としている者に比べるとまだまだだが。
ふふんっと得意そうな顔をするブランシェを見つめ、ヴォルフラムが興味深そうに目をほんの少しだけきらめかせた。
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