2-2 暴食令嬢は異郷に降り立つ
王宮に到着してからの時間は、目まぐるしく過ぎていった。
王宮で働いている使用人たちへの挨拶から始まり、部屋の場所や立ち入ってはならない場所、どこにどのような部屋があるのかなど、多くの説明を受けた。
主に食事で治療を進めるということもあり、何が食べられて何が食べられないかの説明などもあったため、とにかくたくさんの言葉のやりとりをした。会話には比較的慣れているブランシェだったが、全ての説明とやりとりが終わる頃にはさすがに疲れてしまった。
「では、食事の時間までごゆっくりお過ごしください」
「はい。ご丁寧にありがとうございました、ディリアス様」
その言葉を最後に、ブランシェが滞在することになっている部屋の前で彼と別れる。
室内に繋がる扉を開き、客室の中へ足を踏み入れる。
全体的に落ち着く色合いでまとめられた部屋を歩き、ふかふかとしたソファーに座り、ブランシェは深く息を吐きだした。
「覚えないといけないことがたくさんね……」
「お疲れ様です、お嬢様」
幼い頃から聞き慣れた声が鼓膜を震わせる。
直後、ブランシェが座るソファーの前に設置されたテーブルに、紅茶が入ったカップが置かれた。
口元が緩むのを感じつつ、ブランシェは紅茶の用意をしてくれたエリサへ返事をする。
「エリサこそ。エリサも覚えないといけないことがたくさんあったでしょう?」
ブランシェと一緒に王宮へやってきたエリサだったが、ブランシェとは途中で別れて個別に説明を受けていた。
ブランシェの世話係として一緒にやってきた彼女だが、一時的にここの使用人とともに仕事をすることになる。どんな仕事があるのか、どんな場所へ立ち入っていいのか、そういったことを教えてもらっていたはずだ。彼女も彼女で疲労を感じているだろう。
ブランシェの言葉に、エリサは優しい微笑みを浮かべて言葉を返す。
「私は大丈夫です。お嬢様こそ、慣れない環境でお疲れでしょう。どうかごゆっくりお過ごしください」
「……ふふ。身なりを整える時間は確保する予定だけれど……まずはそうさせてもらうわ。ありがとう、エリサ」
彼女の微笑みにつられ、ブランシェも緩く笑みを浮かべた。
その後、エリサが用意してくれたカップへ手を伸ばし、紅茶に口をつける。舌の上に広がる渋みと爽やかさ、鼻から抜けていく豊かな香りは、何度も味わい慣れたものだ。
慣れない環境の中で味わい慣れた味があると、無意識のうちに張り詰めていた精神が緩む感覚がして落ち着くものがあった。
じっくりと紅茶の香りと風味を楽しんだのち、ほうっと息を吐く。
「なんとなくそうだろうなと思っていたけれど……王宮は本当に広いのね。わたくしたちの屋敷も広いほうだと思っていたけれど、比べ物にならないわ」
改めて、先ほど説明された内容を思い出す。
自分たちが滞在することになったのは、王宮という国にとって重要な場所だ。注意事項や立ち入ってはならない場所の説明はどうしても多くなるだろうが、本当に多かった。
王宮そのものも生まれ育った屋敷よりはるかに広いため、慣れるまでは迷ってしまうことも多そうだ。
もう一口、紅茶を口に運んでからブランシェは息を吐き出す。
「陛下にはお会いできなかったけれど……食事のときに顔合わせっていう流れになるのかしら」
「おそらくは。やはり、執務もおありでしょうし……お忙しいのではないでしょうか」
ある日を境に食が細くなった――もしくは、食事量を大きく減らすようになったサントゥアリオの王。
どのような人物なのかはまるでわからないが、説明を受けながら王宮を歩いた感じでは、王宮内の空気は悪くなかった。予想でしかないが、サントゥアリオの王は使用人や部下たちからは慕われていると思われる。
暴君と評価されるような人物ではなさそうなのは安心できるが、かといって心から安堵できるわけではない。
「……わたくし、ちゃんとディリアス様からの依頼を達成できるかしら」
手に持ったカップの中で、まだ残っている紅茶色の水面が揺れている。
唇からこぼれた言葉は、はっきりとした弱音だ。
これまでも領民や家族から頼まれごとをされた経験はある。しかし、今回のように目上の相手に何かをしてほしい――という依頼を受けるのははじめてだ。
療養場所を提供してもらっているため、こちらからも相手にとって益となることをしたい思いはある。だが、ちゃんと達成できるかどうかと考えると、どうしても不安になってしまう。
胸に広がった不安をやり過ごすため、ブランシェは残り少なくなってきた紅茶の水面へ唇をつけた。
「……大丈夫ですよ、お嬢様」
エリサの穏やかな声がブランシェの耳に届いた。
目をぱちくりとさせて顔をあげると、ちょうどエリサがブランシェの隣に腰かける様子が見えた。
「慣れない土地での暮らし、それに加えて他国の王族と接する依頼。不安はつきないかと思います。ですが、お嬢様ならきっとやり遂げることができますよ」
「……そう?」
「ええ。お嬢様はお嬢様らしく振る舞ってください。きっと、お嬢様のお心はサントゥアリオ王に届きますよ」
ですから、きっと大丈夫です。
最後にそう付け足し、エリサが柔らかく笑う。
幼い頃からずっと傍でブランシェを見てくれている彼女がそういってくれるだけで、なんだか本当に大丈夫なような気がしてくるのだから不思議だ。
「……ふふ。なんだか不思議ね。エリサは信じてくれてるんだって思うと、なんだか本当に大丈夫なような気がしてくるわ」
相手が相手だ、上手く振る舞えるかどうかという不安を完全に取り除くのは難しい。
けれど、その不安を抱えたまま振る舞っても、失敗するだけに終わってしまう。
せっかくアーヴィンドがブランシェを頼ってくれているのだから頑張らないといけない――サントゥアリオ王に何かが起きてしまうという最悪の未来を避けるためにも。
不安を紅茶と一緒に胃の中へ流し込み、空っぽになったカップをソーサーの上に戻す。
ぱしんと自分の両頬を軽く叩いて気合を入れるブランシェの表情からは、先ほどまで存在していた不安や弱気の色は消え去っていた。
「ありがとう、エリサ! わたくし、わたくしなりに頑張ってみる」
「ええ、その調子です! 私はいつでも応援しておりますよ、お嬢様」
ぱっとブランシェの顔に笑顔の花が咲いた。
エリサも一瞬だけ安堵の表情を見せたのち、しっかりと頷いた。
「さて、と……エリサ、そろそろ支度をしたいの。手伝ってくれる?」
そう声をかけながら、ブランシェは部屋の壁に設置されている時計へ目を向けた。
豪奢な印象のあるフレームで飾られた時計盤の針は、もうすぐ夕方を指している。
シュネーフルール領を発ったのが昼頃のため、いつのまにか結構な時間が流れていたようだ。食事の時間が何時頃になるかはわからないが、早めに支度をしておいて損はない。
「もちろんです。お嬢様が自信を持ってサントゥアリオ王とお会いできるよう、私もサポートします」
「ふふ、ありがとう。エリサ。なら、お願いするわ」
わたくしがわたくしらしく、自信を持って王と接することができるように!
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