2-3 暴食令嬢は異郷に降り立つ
客室にノックの音が響いたのは、時計盤の針が夜を示す頃だった。
わざわざ迎えに来てくれたアーヴィンドの背中を追いかけ、王宮の廊下を歩く。ちらりと窓から見えた景色は夜の色に包まれており、静かな空気を感じさせた。
「シュネーフルール嬢」
アーヴィンドの声が聞こえ、ブランシェは窓の外から目の前のアーヴィンドへ視線を向ける。
わずかに振り返ってこちらを見やるアーヴィンドの目は、どこか心配そうに映った。
「やはり緊張しますか?」
「……そうですね……正直なことを申し上げると、少し。他国の王族の方にお会いするのははじめてですから」
どう答えるかほんの少し考えたのち、ブランシェは素直に答える。
緊張もするし、やはり不安もある――だが、エリサの手を借りてしっかりと身支度を整えた今なら、しゃんと背筋を伸ばしてサントゥアリオの王と会える。
アーヴィンドの背中を追いかけて一歩を踏み出すたび、ブランシェの身体を飾る白雪色のドレスが揺れる。自身の髪と同じ色をしたドレスは、食事のときは気を使うけれど、ブランシェにとって勇気をもらえる大事なドレスだ。
かつん。こつん。二人分の足音を奏でながら、二人の間で言葉が交わされ続ける。
「ですが、わたくしなりにできることをすると決めました。緊張や不安はありますが、なんとか頑張るつもりですので」
だから、そんな目をしなくても大丈夫。
言葉には出さず、そんな思いを込めてアーヴィンドへと笑顔を向ける。
彼は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに安堵の表情を見せ、再び正面へ視線を向けた。
「……お強い方ですね。シュネーフルール嬢は」
「もっとも信頼している使用人からエールをいただいたので。それに、ディリアス様からの期待もありますもの」
ブランシェからはアーヴィンドがどのような顔をしているのかわからない。
だが、ブランシェの返事を聞いた瞬間、アーヴィンドがほんの少しだけ笑ったような気がした。
「私は……シュネーフルール嬢に大きなプレッシャーを与えてしまったのではと考えていましたが……どうやら大丈夫だったようですね」
とても小さく呟かれた彼の言葉は、安堵の色に満ちていた。
彼の呟きに対し、ブランシェが何かいうよりも早く、アーヴィンドの足が止まる。
ブランシェも彼の動きに合わせて足を止める。
一度だけブランシェへ視線を向けたのち、アーヴィンドは自身の目の前にあるダークブラウンの扉に手を添えて押し開いた。
「王。昼間にもお話したクォータリー国からのご令嬢をお連れしました」
先ほどまで耳にしていたものとは異なる、凛としたアーヴィンドの声が食堂の空気を震わせる。
彼の声を耳にした瞬間、ブランシェは自身の背筋が伸びるのを感じた。
足を踏み入れた食堂の中は、冬の朝を思わせる空気で満ちていた。冷えているわけではない。けれど、自然と気持ちがしゃんとするような空気だ。
丁寧に掃除が行き届いた室内には、白い清潔なテーブルクロスで飾られた大きめのテーブルが設置されている。来客用のものも含めているのか、細やかな装飾が施された椅子もずらりと置かれている。
テーブルにはプレースマットが敷かれ、ピカピカに磨かれたナイフやフォーク、スプーンなどの食器が置いてある。空っぽのグラスも同様に設置されているが、肝心の料理はまだどこにも見当たらなかった。
広い食堂に対し、テーブルには数人程度しかついていない。頭部に角が生えた者、獣のような姿をした者、人間に獣をミックスしたような姿の者――数多くの魔族がいる中で、上座に座る青年はもっとも大きな存在感を放っていた。
夜闇を溶かし込んだかのような青みがかった黒髪。夜に光る星屑を思わせる金と銀の瞳。涼やかを通り越して冷たささえ感じさせる切れ長のそれは、真っ直ぐにブランシェへ向けられていた。
「……アーヴィンド。彼女が例の話の令嬢か」
低く、落ち着きを感じさせる声が食堂に響き渡る。
ブランシェは一歩前へ進み、アーヴィンドの隣に並ぶ。ゆっくりと丁寧な動作でドレスのスカートをわずかに持ち上げ、深々と青年へ頭を下げた。
「お初にお目にかかります、陛下。わたくしはブランシェ・シュネーフルール。クォータリー国に存在するシュネーフルール領から、こちらに参りました」
緊張や不安を奥底に隠し、ブランシェは自身の名前と出身を名乗る。
ちらりと青年へ目線を向けると、彼は何やら考え込むように首を傾げて目を伏せていた。
考えていたのはほんの数秒という短い間。再び青年の瞳が開かれ、金と銀の瞳がブランシェの姿を映し出す。
「シュネーフルール領……一度だけ耳にしたことがある。人間たちの間では美食の地として知られているそうだな」
頭を下げた姿勢のまま、ブランシェは目をぱちくりとさせた。
まさか彼が――サントゥアリオの王がシュネーフルール領のことを知っていたとは。ほんの少しだけ意外に感じてしまった。
だが、自分の出身地を誰かが知ってくれているというのは、なんだか嬉しいとも感じる。
顔をあげていい。一言紡がれた彼の声に従い、ブランシェはゆるりとした動作で顔をあげた。
「遠方の地からようこそ参られた。俺が現サントゥアリオ王、ヴォルフラム・ヌーヴェルリュヌだ。あなたが患っている古き病が治るまで、ゆっくり過ごしていくといい」
やや素っ気ない口調でそういうと、ヴォルフラムはゆるりとした動作でテーブルを見やった。
どうやら、無言だがブランシェへ着席を促しているらしい。
「……温かいお言葉、感謝いたします。陛下」
素早くそれを読み取り、感謝の言葉を告げてから席につく。
見れば、アーヴィンドもヴォルフラムの近くにある椅子を引き、席についていた。
ブランシェの視線に気付いたらしく、アーヴィンドが一度だけブランシェを見て、安心させようとするかのように緩く微笑む。
ブランシェも同様に緩く微笑みを返した直後、再び食堂の扉が開かれる音がした。
「失礼します。夕食をお持ちしました」
一言断り、数人のメイドがサービングカートを押して食堂の中に入ってくる。
瞬間、ふわりと食欲を誘う香りがブランシェの鼻をくすぐった。
メイドたちはテーブルの傍で足を止め、丁寧に、けれど素早い動きでサービングカートにのせられていた料理たちをテーブルに並べていく。
限られた食器しか置かれていなかったプレースマットの上は、あっという間にさまざまな料理で賑わった。こんがりと美味しそうに焼き上がった魚のポワレ、なめらかそうな野菜のポタージュ、透明なドレッシングがかけられた瑞々しいサラダ――どれもがブランシェの空腹を誘う。
空っぽだったグラスにも細やかな泡を立ち上らせる紫色の飲料が注がれれば、ブランシェが感じていた空腹はいよいよ本格的なものへと変化した。
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