1-5 暴食令嬢は飢餓を抱える
がたごと、がたごと。車輪が大地の上を走る音に伴い、振動が伝わってくる。
療養が決まった日から数日後。家族や使用人、領民たちに見送られ、ブランシェはサントゥアリオ国からやってきた馬車に乗っていた。
窓から見える景色は次々に流れていき、見知った景色から見知らぬものへと移り変わっていく。
生まれ育った地を離れ、未知の国へ飛び込む――己が下した決断を自覚させるには、十分すぎるほどの景色だった。
わずかな緊張と未知の国への好奇心が、ブランシェの心を刺激する。
「やはり緊張しますか、シュネーフルール嬢」
声をかけられ、ブランシェは窓の外から景色を眺めるのをやめ、正面に座っているアーヴィンドへと視線を向けた。
清潔感のある馬車の中にいるのは、ブランシェとアーヴィンド、そしてブランシェの世話係として療養に同行することになったエリサだけだ。
ゆるりと首を左右に振り、ブランシェはアーヴィンドへ柔らかく笑みを向ける。
「確かに少々緊張はしております。ですが……正直なことを申し上げると、わくわくした気持ちもあります。シュネーフルール領を長く離れるのは、今回がはじめてですから」
「それならいいのですが。シュネーフルール嬢からすると、今まで足を踏み入れたことのない場所へ向かうという状況ですので。緊張や不安も強いかと思います。……ですが、せっかくですので小旅行のようなものと考えて楽しんでほしい気持ちもあります」
身体を治すためだけと考えると、精神的につらくなってしまう可能性がありますしね。
少しだけ苦笑を浮かべてそういうと、アーヴィンドは自身の荷物を探り始める。
一体何を探しているのか疑問に思いつつ見守っていると、探り始めてから数分後、彼の手が目当てのものを取り出した。
アーヴィンドの手の中にあるのは、黒地に金粉をまぶしたような美しい化粧箱だ。わずかな甘い香りをまとっており、長く続く空腹感に悩まされ続けているブランシェの身体はその香りを素早くキャッチした。
アーヴィンドの手が化粧箱の蓋を開け、中身が見える状態にしてからブランシェへ差し出す。
「こちらをどうぞ。我が国で作られている焼き菓子です。サントゥアリオまではまだかかるため、こちらで空腹をなだめてください」
差し出された箱を受け取り、中身をじっくりと観察する。
クッキーにマドレーヌ、フィナンシェなど複数の焼き菓子が入れられた、いわゆるお菓子の詰め合わせだ。それぞれが柔らかな狐色に焼き上がっており、中にはハーブや紅茶の茶葉を混ぜ込んだものもある。
じっとそれぞれの焼き菓子を見つめたのち、ブランシェは隣に座るエリサへと視線を向ける。
視線に気付いたエリサは、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに緩く笑顔を浮かべた。
「いただいたほうがよろしいかと思いますよ、お嬢様。最低限の栄養素はサプリメントやその他の方法で摂取していますが、やはりお腹がすくでしょう?」
「……でも、わたくし、全部食べてしまいそうなの。一人で全部食べてしまうなんて、はしたなくないかしら」
呟くような声量での言葉。
それでも隣にいるエリサには十分届いたようで、優しい笑顔とともに言葉が返ってくる。
「たまにはそんなときがあっても大丈夫でしょう。お嬢様がお一人で全部食べてしまったとしても、私もディリアス様も何もいいませんよ。約束いたします」
「ええ。それに、そのお菓子はシュネーフルール嬢のためにご用意させてもらったものですから」
どうぞ、お気になさらずに。
エリサだけでなく、アーヴィンドも同様の言葉を口にし、片手をブランシェへ向ける。
食べるか食べないか――少々悩んでいたブランシェだったが、やがて片手を伸ばし、クッキーを一枚手にとった。
ほのかな甘い香りを楽しんだのち、一口齧りつく。
優しい狐色に焼き上がった生地はサクサクしており、軽い食感を楽しめる。舌の上に広がる甘みはしつこさがない、どこまでも優しいものだ。その分食べやすく、一枚、また一枚と食べたくなる美味しさに仕上がっている。
次に、ブランシェはマドレーヌを口に運ぶ。
一口サイズに作られたマドレーヌの生地は、先ほど口にしたクッキーとは対照的にしっとりとしている。優しい甘みとバターの芳醇な香りが口の中いっぱいに広がっていき、幸福感と満足感をブランシェに与えた。
「美味しーい……」
噛みしめるような声色で、思わず感想が口からこぼれる。
何か食べ物を口にして、はっきりと空腹が満たされていく感覚がするのは久しぶりだ。食べても食べても続いていた空腹感が鳴りを潜めていき、かわりに幸福感が広がっていく。
とろけるような表情を見せ、お菓子を口に運んでいくブランシェの様子に、アーヴィンドとエリサもつられて表情を和らげる。
「お嬢様、美味しいですか?」
「とっても! エリサも一つどう? わたくしたちの国とはまた違った味がして、とても幸せな気持ちになるから!」
声をかけてきたエリサへ視線を向け、花が咲いたような笑顔で答える。
何かを食べていてこんなにも楽しく、幸せな気持ちになれたのは本当に久しぶりだ。
領地で過ごしていたときはどうしても満たされない空腹感が気になってしまい、食事を楽しむことに集中できなかった。だが、今は食べたら食べた分だけ満たされて空腹感もどんどん和らいでいく――そんな当然のことが、どれだけありがたいことか。
「お嬢様が全て召し上がってもいいのですが……」
「ううん、エリサにも食べてほしいの。それから、できたらディリアス様にも」
「おや。私にも、ですか?」
まさか自分にも勧められるとは思っていなかったのだろう。アーヴィンドが驚いた声を出す。
目をぱちくりとさせている彼へ大きく頷き、ブランシェは言葉を口にした。
「だって、美味しいものはみんなで食べたらもっと美味しくなりますもの! もちろん、無理にとはいいませんが……」
これは、ブランシェがシュネーフルール領でさまざまな料理を口にするうちに学んだことだ。
美味しいと感じたものを一人でじっくり味わうのも悪くはない。だが、その場に自分以外の誰かがいるならば、その人も巻き込んで一緒に食べたほうがさらに美味しくなる。
きょとんとした顔をしていたアーヴィンドだったが、やがて再び表情を緩め、ブランシェが持つ箱へ手を伸ばす。中に並んだ焼き菓子のうち、マドレーヌを手にとって小さく頭を下げた。
「お心遣い、感謝いたします。シュネーフルール嬢」
「いいえ。むしろ、わたくしの我が侭を聞き入れてくださってありがとうございます、ディリアス様」
ブランシェもまた、アーヴィンドへ丁寧に頭を下げる。
その後、エリサにも同様に焼き菓子を一つ勧めてから、自分もフィナンシェを手にとった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます