幕間 side A

 もう少しキリのいいところで離席したかったのだが、ついギリギリまで我慢してしまった。

 とっつきにくそうに感じられた社会学とやらは、予想から外れて案外興味深く、愛の経験とも接続しやすく、つまるところ機を逸する程度にはのめり込んでしまい、ついにはほろ苦い記憶までも刺激されていた。

 

 

 *


「ジミー、中学受験するの?」

 クラスを牛耳る派手グループの中心人物、通称〝姫〟の言葉に、取り巻きが大袈裟に反応する。

「ええー、なんでわざわざそんな面倒臭いことすんのよ」

「そうだよ、うちらと一緒に持ち上がりでいいじゃん」

 

 ――あんたらと一緒にいたくないからわざわざ受験するんだよ!

 なんて、口が裂けても言えない。ジミーと呼ばれた私、久野愛はへらっと愛想笑いを浮かべながら「いやぁ親が受験しろってうるさくて」ともっとも角が立たなさそうな理由を口にした。

 実際は両親とも私に受験を進めたことなんかただの一度もない。パパ、ママ、これもクラスで上手くやっていくための嘘なんです。わかってくれるよね。

 

「ジミーがいなくなるとつまんない」

(だってマウントとる相手がいなくなるんだもんね)

「そうそう。ジミー、いっそわざと受験落ちちゃいなよ」

(はぁ? 縁起でもないこと言わないでよ!)

「いいねーそれ! ジミーが有名私立行ったってどうせ友だちなんてできないっしょ」

(ほら、そうやっていつも私のことを馬鹿にする)

「あれ? ジミー怒った? 友だちの冗談じゃん、そんな顔すんなって」

「――う、ううん! 怒ってないよ! だよね、私が受かったところで友だちができるかわかんないもんねー」 

 

 まずいまずい、また顔に出てしまったらしい。私は慌てて調子を合わせる。

 中学に入ってからもこんな感じのやりとりを続けるなんてごめんだ。大体、ジミーと呼ばれてはいるけど、彼女たちと同じクラスになるまでは、ふつうに久野っちとか愛ちゃんって呼ばれていたのだ。この子たちの基準では地味ってことになるんだろうけど、それにしても失礼なあだ名だと思う。


 でも、初めて声をかけられた時は嬉しかったんだよなぁ――

 新学期最初の授業中にこっそり好きな漫画のキャラクターの絵を描いてたら、隣の席だった姫野さんに見つかった。名は体を表すって言うけど、姫野さんはお姫様みたいに可愛い顔をしていて、おまけに声までとっても可愛かった。その姫野さんがそっと顔を寄せてきて

「ねぇ、このキャラ、私も好きなんだよね。あたしたち、気が合いそう」

 とささやいてきた時は、心臓がどくどくと脈打っているのがわかるくらい、私は舞い上がってしまった。


 選ばれたような気がして、すごく気分がよかったのはこのときだけ。休み時間に入った途端、〝姫〟から〝ジミー〟と命名された私は、久野っちでも愛ちゃんでもなく、クラスのみんなから〝ジミー〟と呼ばれるようになった。

 おそるおそる、「ジミーってたしか男の人の名前だよね、なんでジミーなの?」と訊ねたら、姫は天真爛漫そのものといった明るく、そして甘い声で、こう言ったのだ。


「えー。だって久野さんってちょっと華やかさに欠けるっていうか、地味だしピッタリだと思って。ほら、ジミーだと可愛く聞こえるでしょ? 私は好きだなぁ、ジミーって名前」


 蔑みをポジティブな言葉で包むあたりに底意地の悪さが滲み出ていた。

 可愛いとか好きなんて言うなら、姫がジミーになればいいのに。そんな心の声はそっと封印して、私は「そうなんだぁ。姫が好きならいっか」と笑った。

 もちろん、不本意なあだ名を授けられたことに納得はできなかったけど、不服を申し立てたところで素直に耳を傾けてくれる相手とも思えず、姫のネーミングにNOを突きつけて彼女の機嫌を損ねた先を思えば、とても逆らう気なんて起きなかった。


 せっかく最終学年までわりと楽しい学校生活を送ってきたのだから、ここで失敗するわけにはいかない。甘んじて受け入れるしかない、私はそう思った。

 それに、必ずしも悪いことばかりではないのだ。「あの姫野さんに気に入られるなんてすごい」と私に羨望のまなざしを向ける子も少なくなかった。どうやら姫が率いるグループに所属しているだけで、クラス内における私の地位もあがったらしい。このように、クラス内権力者のお膝元ポジションというのはそれなりのメリットを伴い、わずかながらも私の自尊心をくすぐった。


 こうなったら多少の不服には目をつむって、お膝元ポジションをとことんまで享受してしまおうと私は腹を括った。が、夏休みに入る前までにその決意はあえなくひるがえった。姫たちとのコミュニケーションを重ねるたび、日に日に不満が溜まり、心は疲弊し、不服に目をつむるどころではなかった。


 姫とその取り巻きたちの私に対する言葉や態度は、いじめというには決定打に欠け、いじりにしては毒が強い。クラスメイトらは「姫野さんグループは明るくて、言いたいことを言い合える仲の良さがあっていいね」と評しているくらいだ。人を虚仮こけにしたやりとりも、はたから見れば親密さ故に遠慮なくモノを言っているように映っているのかもしれなかった。


 でも現実は違う。グループ内には目に見えない序列があって、その関係性は決して対等ではないのだ。言うまでもなく、私は最下位。彼女らが私をジミーと呼ぶその呼び方に親しみや友情は感じられず、いつもほのかな蔑みが含まれている。「友だち」という言葉を盾にして、「冗談」という雰囲気を演出して、毒のある言葉をぶつけてくる。心の中はだんだん笑えなくなっていた。だけど、周りからは依然として仲良しグループだと思われている。本当は全然そんなことないのに。

 何より、一番嫌だったのは、結局仲間はずれにされたくなくて、姫たちにおもねるようになってしまった自分の卑屈さだった。


 ――環境を変えなくては。

 私は予定になかった中学受験を決意した。固く、固く、決意した。

「地味」な私を卒業して、誰におもねることもない、華々しい人生をリスタートさせるためにも、環境を変えるのは必須条件なのだ。それには、中学受験をして合格を勝ち取り、晴れて彼女たちから離れるのが一番いい。


 * 


 手を洗い、ポケットに入っていたリップクリームを塗る。色付きでないことが悔やまれたが、ないよりマシだ。

 さぁ出ましょうかと愛が扉を開けたところでちょうど祖父から声をかけられた。

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