龍のいる天井

いちはじめ

龍のいる天井

 古刹の境内を一人の老婦人が静かに歩いている。紅葉にはまだ早い初秋の頃で、参詣客や観光客もほとんどおらず、綺麗に掃き清められた本堂に続く参道は、静謐な空気に包まれていた。古刹と呼ばれるだけあって、境内の木々さえも凛とした佇まいを見せている。

 彼女は先頃、長年連れ添った夫を亡くしたばかりであった。葬儀や一連の手続きなどの厄介事を片付け、ようやく普段の日常が戻りつつあった。

そうした中、彼女は夫のいない日常に何か頼りなさを感じ、ふと新婚旅行できたこの古刹を訪れてみようと思ったのだ。

 この寺は、新婚旅行のコースには含まれていなかったのだが、夫は気乗りのしない彼女を、わざわざここに連れてきたのだった。

 ――なぜ私をここへ連れてきたのかしら……。確か、天井に描かれた龍の絵を見ようとか言っていたのよね。

 夫はその龍を見ることを楽しみにしているようであったが、連れて行かれた本堂はほの暗く、天井に描かれた龍の不気味な姿に彼女は怯え、一目見ただけで足早にその場を離れたのだった。夫がその時、何か言っていたという記憶はあるのだが、その内容までは覚えていなかった。

 彼女は境内をゆっくりと歩きながら、夫と歩んだ人生を振り返っていた。

 夫とは見合い結婚だった。その時彼女には心を寄せている男性がいたのだが、恋愛結婚などまだ珍しかった時代の、ましてや古風な田舎のこと、一女性の意思を押し通せるわけもなく、家が薦める男性と不本意な結婚をしたのであった。

 夫は、酒やギャンブルにうつつを抜かすような男ではなかったが、まじめすぎてどこか面白みに欠ける男だった。そこが物足りなく、ついぞ彼女が夫にときめくことはなかった。

 夫の方はというと、何かと彼女に世話を焼くのだが、それがあまりにも的外れで、彼女には癇に障ることの方が多かった。

 一度など、夕飯の準備をしていたところに、レストランを予約したので出てきなさいと突然電話をかけてきて、作った料理が全て台無しになったことがあった。そんなことを急に言われてもと言うと、この店は予約が取りづらいんだ、ずっと以前から苦労してやっととれたんだ、と夫は自分の都合ばかり一方的にまくし立てた。レストランに着いたら遅いと小言を言われ、外出のための身支度に、時間をかけることも女の楽しみの一つなのに、普段の格好でいいなどと言う無神経な男だった。

 一事が万事そんな調子の夫だった。

 二人の子供を授かってからも、夫の無神経さは幾度となく彼女を苛つかせた。

 何度目かの結婚記念日、夫がとても高価な指輪を買ってきた。子供たちの学校の費用や塾やらやらで、家計がとても苦しい時期だったので、さすがに彼女の堪忍袋の緒も切れ、大喧嘩になった。夫としては、子育てに奮闘する妻に対する、ねぎらいのつもりだったのだろうが、彼女には夫の自己満足としか映らなかった。

 ――思えば夫との思い出はそんなことばかり。決して不幸とは言えないけど、夫への愛情は……。

 そう思っても詮無きことだと分かってはいるが、と彼女はため息をついた。

 その時、彼女の様子が何かおかしいと思ったのか、後ろから住職が声を掛けてきた。

「どうかなさいましたか? ご気分でも?」

「いえ、なんでもありません。ちょっと考え事を……」

「それならよかった。今日は参詣ですか」

「ええ、昔新婚旅行でこちらに寄せてもらったものですから、久しぶりに来てみようかと」

 二人は並んで本堂へと歩き出した。

「そうですか、昔はちょっとした新婚旅行の人気コースでしたからね」

「そうだったんですか? 知りませんでした」

「本堂の天井に描かれた龍の絵が、ご夫婦共に笑っているように見えると、夫婦円満になるという言い伝えに人気があったんです」

 驚く彼女に、あの時の夫の言葉が鮮やかによみがえってきた。夫は本堂の天井を見上げて言ったのだ、龍が笑っているよと。

 彼女は住職の後をついて本堂の中へと入っていった。本堂の中は、彼女の記憶と違ってずいぶん明るかった。

 彼女は天井を見上げた。

 そこには、夫があの時彼女に見せたかった龍が、雷雲の中から顔を出し、優しく微笑んで彼女を見下ろしていた。

 ――私たちは円満だったんだ。

 そう思った途端彼女は、自分勝手な振る舞いとばかり思っていた夫の行動が、全て彼女の為であったことに気付いた。そして左手の中指に差した指輪に、夫と同じ温もりを彼女は感じた。

 彼女は涙をこぼすまいとするかのように、いつまでも龍を見上げていた。

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