第18話 偶像少女と陸上少女②
土曜日になった。言葉の通り、リオンちゃんはきくの湯には現れない。香澄ちゃんも今日は陸上部の方に行っていて来ていない。朝イチできくの湯に来たのは私だけだった。
古ぼけた暖簾をくぐってガラス戸を開ける。
嗅ぎなれたお風呂の匂いが鼻をくすぐった。温泉の硫黄臭ではなく、石鹸やシャンプーの匂いが混ざった銭湯の匂いだ。この匂いできくの湯に来た実感が湧く。
入ってすぐ、左を見遣れば番頭台があってそこには桜のおじいちゃんが座っている。
「ゆいちゃんか、らっしゃい」
競馬新聞をめくりながら、桜のおじいちゃんは煙管を吹かした。今日も一段と渋いっすね。私が男だったらこんな風に歳をとりたい。
桜のおじいちゃんの利家(としいえ)さんは、隠居していて、平日の朝の早い時間帯と、土日にたまに手伝いに来るというのを最近知った。なかなか渋い爺さんで、会う度にいつも紫煙をくゆらせて、競馬新聞を読みふけってる人だ。
閑話休題。
私は小銭を桜のおじいちゃんに渡し、女湯の暖簾をくぐった。
最近のきくの湯は、テレビで取り上げられたこともあって、かなりお客さんが増えていた。だから、人の少ないときにゆっくりお風呂に入るのも久しぶりだった。他のお客さんと言えば、常連の朝が早いおばあちゃんたち数人くらいだ。十分ゆっくり浸かれるだろう。
服を大雑把に脱いで籐籠に入れて、磨りガラスの戸を開けた。
「おお、ゆい! おはよ!」
浴場で掃除をしていた桜と出くわした。
「おはよ。上がったら手伝うね」
「おうさ」
そんなやり取りを交わして、私は湯船に浸かった。
今日は土曜日だから、お客さんも平日より増えるだろうなぁ。忙しくなるぞ。
よしっ、と頬を叩いて気合いを入れる。銭湯の手伝いは意外とハードなのだ。水を吸った貸し出し用のタオルを運んだり、空いた牛乳ビンを片付けたりとか。これが特にキツい。四十本くらいの牛乳ビンを持ち上げるのは、十七歳になったばかりの乙女には辛い。それを何往復もするのだから、気が滅入ってしまう。
嫌なことを思い出してしまった。私は首を振って牛乳ビンを頭から追いやって湯船から出た。
バスタオルで体を拭い、服を着る。仕事後の汗を流すお風呂も好きだけど、朝イチで入るお風呂もさっぱりしていいな。もうしばらく家の湯船には浸かっていない。やっぱり大きな風呂が入れるなら、それに入りたがるのが日本人の性だろう。
暖簾をくぐり、一度桜の部屋に向かう。桜の部屋のクローゼットを開けると、きくの湯と書かれた臙脂色のエプロンが三着掛かっている。私はその中から端のエプロンを取って、身につけた。
エプロンを身につけ、お手伝いフォームに変身した私は、階段を駆け下りて銭湯に帰ってくる。
「利家さん、代わります」
煙管を吹かす桜のおじいちゃんに声をかけて、番頭役を交代した。私たちが男湯に入る訳にもいかず、桜のおじいちゃんがいるときは男湯の掃除は彼に任していた。その代わりに私が番頭台に座るというわけだ。
一段高くなった番頭台からの眺めは新鮮だった。いつもと違う目線から休憩室が見える。
桜のおじいちゃんが置いていった競馬新聞を眺めながら、ダラダラと店番をする。
朝の九時を回ったくらいからだんだんとお客さんが増えてきて、十時過ぎには見たことないくらいに人が来ていた。
入れないくらいとか、おしくらまんじゅうってわけでないが、客足が止まらない。小銭を受け取って、お釣り。お札を受け取り、お釣り。小銭を――。この繰り返しだ。これがテレビ効果なんだろうか。
「すごい人だね」
「ホント、びっくり」
桜はカタコトで驚いていた。そういえば、ここをお客さんでいっぱいにするのが夢、って言ってたな。
「これが毎日続けばいいのにな」
「首が回らなくなっちゃうよ」
「嬉しい悲鳴ってやつだね」
お客さんからお金を頂き、貸し出し用のタオルを手渡しながら桜と会話する。
「明日、香澄ちゃんの大会だよね」
「うん」
「皆、頑張ってるんだね」
「うん」
作業しながらだから、あまり中身のない会話だ。
「私たちも頑張らないと」
桜はふんすっ、と鼻息荒く牛乳ビンを運びに休憩室に行く。
私はそんな小さくても頼もしい背中を見て笑った。
◇
その日の夜、香澄ちゃんから連絡が来た。
「明日さ、大会なんだけど、応援に来てくれない?」
電話口で香澄ちゃんはそう言った。
「うん、桜と一緒に行くつもり」
「ほんと! ありがとう! 決勝は午後からだから、できればお弁当持ってきといて!」
香澄ちゃんは嬉しそうな声だ。リオンちゃんが一緒に行けないのが残念だけど、リオンちゃんの分まで香澄ちゃんを応援しよう。
私は電話を切って、床についた。
しかし、現実はそう上手くはいかなかった。
「え、桜が倒れた?」
「ええ、そうなのよ。申し訳ないんだけど、手伝いに来てくれないかしら。私の父も今日は来れないらしいのよ」
次の日、準備を完璧にして、いざ陸上競技場へ、とドアを開けたところで私のスマホが鳴った。出てみれば桜のお母さんからで、桜が倒れたと言うではないか。
午前中だけでいいから手伝ってくれないかと言われ、私は仕方なく手伝うことにした。元々、桜と大会を見に行く予定だったし、桜の体調も心配だ。午後から始まる、香澄ちゃんの決勝までに間に合うように切り上げられるだろうか。
私は駆け足できくの湯に向かった。
数百メートルの道を小走りで来た。体が酸素を求めて、肺の運動が激しくなった。鼓動もドキドキとうるさい。
入り口から入って、番頭台に座っていた桜のお母さんに桜の容態を聞く。
「桜は!」
「部屋で寝てるわ。ごめんなさいね。心配かけちゃって」
部屋にいることを聞いて、私は急いで桜の部屋に入った。
「あ、ゆい。来てくれたんだ」
部屋のベッドで横になる桜の顔色は真っ青で、明らかに体調が悪そうだった。
「大丈夫?」
フラフラと状態を起こした桜に駆け寄る。
「ごめんね、今日香澄ちゃんの大会なのに……」
弱々しくそう言う桜の声にはいつもの元気はない。このところ、テレビに出たり、客が急に増えたりで目まぐるしかったからな。そりゃあ疲れも出るだろう。私は桜に寝とくように言って、クローゼットのエプロンを取り出して銭湯に戻った。
関係者以外立ち入り禁止、と書かれた暖簾をくぐり、銭湯に入る。番頭台の所は桜のお母さんに任せて、私は女湯に入った。
使用済みのタオルの返却口からタオルを取って洗濯機に入れ、空の牛乳ビンを運んで片付ける。桜が一人いないだけで、肉体的にも精神的にも堪えた。
そういえば、湯けむり部を作ってから桜と別行動なんて数えるくらいしかなかった。ずっと一緒にいたからか、一人が余計に心細く感じた。
ずっと一緒にいたのに、桜が倒れるまで気づかなかった私って。そんな考えが浮かんできた。一人で働いているとネガティブなことばっかり思い浮かんで、桜の体調の変化を気づいてやれなかったことに苦い悔しさを感じた。
私が一番近くにいたのに。
その悔しさをぶつけるように、仕事をこなした。
「ゆいちゃん、もうすぐ父も来るらしいから切り上げていいわよ。香澄ちゃんとの約束があるんでしょう?」
桜のお母さんにそう言われ時計を見た。忙しさのあまり時間を忘れ、あっという間に十二時になっていた。
スマホを見ると香澄ちゃんから大会のタイムテーブルが送られていて、決勝は十三時からと書かれていた。
ここから陸上競技場までどう急いでも一時間半はかかる。間に合わない。
ああ、私は友達の体調の変化も気づけない、友達との約束も守れないゴミだ。
そんな考えが頭を過ぎった。
香澄ちゃんとの約束があるから、と切り上げたはいいものの、詰みだ。
「ゆいちゃん、どうした」
私がきくの湯の前でしゃがみこんでいると、頭上から渋い声が降ってきた。
私が顔を上げると、桜のおじいちゃんがいた。
「実は……」
利家さんに事情を説明した。途中から自分が情けなくなってきて、涙が出てきてしまって上手く言葉にできなくなってしまった。
「乗りな」
「へ……?」
ぐしぐしと溢れてきた涙を拭いて利家さんの方を見ると、利家さんは大型バイクをポンポンと叩いていた。
「こっからコイツなら一時間で着く。運がよけりゃ間に合うだろうさ」
そう言ってサドルを開けて、中のヘルメットを私に放り投げて来た。
私が戸惑っている間にも、利家さんはブロロロとバイクのエンジンをかけてバイクに跨った。
「行かないのかい?」
「い、行きます!」
利家さんに声をかけられ、私は急いでヘルメットをつけた。利家さんの後ろに乗っかって、彼のお腹に手を回した。
「ちゃんと捕まってな」
そう言ってバイクは走り出した。利家さんの背中からは煙草の香りがした。
◇
「あ、ありがとうございました!」
「おうさ」
陸上競技場に着いた私は、送ってくれた利家さんにお礼をして、踵を返して競技場に急いだ。
案内板の通りに進んで、競技場の観客席まで走る。競技場をグルリと伝うように回って、観客席に続く階段を見つけた。
影になって薄暗くなった階段を駆け上がる。
階段を上がると、一気に周りが明るくなって視界が開けた。明るさに目がくらみ、一瞬たじろいだその瞬間、ピストルの音が耳を貫いた。
その音にハッとして、観客席を駆け下りた。最前列の柵から乗り出すようにしてトラックを見渡す。
香澄ちゃんは――!
いた! そう思った瞬間に香澄ちゃんはゴールしてしまった。香澄ちゃんは二位だった。
間に合った、のかな。何とかゴールの瞬間は見れた。私は安心感からその場にへたりこんでしまった。拭いたはずの涙が再び出てきそうになって、私は鼻をすすった。
しばらくその場にへたりこんで、ハタとここにいたら邪魔だと気づく。私は来た道を戻って、香澄ちゃんを探した。
「おーい、ゆいちゃーん!」
しばらく競技場の周りをグルグルと歩いていると、後ろから香澄ちゃんの声が聞こえた。私が振り向くと香澄ちゃんが手を振りながら駆け寄ってきた。
「香澄ちゃん」
私の声は掠れてしまって香澄ちゃんまで届かなかった。
「ゆいちゃん、来てくれたんだね」
香澄ちゃんが息を弾ませて言った。
「予選のときはいなかったみたいだから、来てくれないのかと思っちゃった。あれ、桜ちゃんは?」
私は、桜が倒れてしまって予選に来れなかったことを謝った。
「え、桜ちゃん大丈夫なの?」
「家で寝てるけど結構辛そうだった」
「そっか……。でもゆいちゃんだけでも来てくれて嬉しいよ」
「でも、間に合わなかったかもしれないし……」
「いーのいーの、間に合ったんだしさ」
香澄ちゃんの優しい言葉に再び泣いてしまいそうになった。
「ところでさ、そのヘルメット何?」
「え? ……あ」
香澄ちゃんのことに夢中で気づかなかったが、ずっと利家さんのヘルメットを抱えたままだったみたいだ。返し忘れてた。
私はどんどん自分の耳が熱くなっていくのを感じた。
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