第5話 旅行とミルク①
今までずっと気になっていた、きくの湯にある謎のマシン。それは休憩室の奥にあって、一見すると、SFモノの漫画で見る脳波マシンかのような機械だ。椅子の背もたれからアームが伸びて、そのアームの先には頭の周りを囲うボウルみたいな形のモノが逆さまに取り付けられている。私は頭の中で勝手に脳波マシンと呼んでいた。
「ねぇ、桜ちゃん」
「ん?」
「なんであそこに脳波マシンがあるの?」
日に日に蓄積されていった疑問が爆発して、とうとう桜ちゃんに脳波マシンについて聞いてみることにした。
「あ、あれ? パーマ機だけど」
「ぱあまき」
「うん」
「なにそれ」
「パーマ機だよ。パーマあてる機械」
なんと、あれがあのパーマ機さんでしたか。脳波マシン改めパーマ機だったらしい。
「そんなことより、もう一人の部員をどうするかだよ」
私の密かな疑問は一蹴されてしまった。さようなら、私の脳波マシン。
「ビラ見て声かけてくれた人いたの?」
ソファに深く座った小松ちゃんがスマホを片手にそう言った。
「いや、全く」
そう、未だに私たちの部員数は三人で、部として認められるにはあと一人必要だ。当然、部室も与えられていないため、放課後はきくの湯に集まって三人で駄弁る日々が続いていた。失礼ながらお客さんも来ないので、貸し切りのお風呂にも入ることができて、中々快適な放課後だった。
「気長に待つしかないんじゃない?」
スマホの画面に照らされた小松ちゃんは気だるげに言う。
「そうだよねぇ……」
桜ちゃんはペシャリとソファに倒れ込んだ。
「ああああ!! 温泉行きたいよおおお!!」
突然の桜ちゃんの大音声に、小松ちゃんも私も驚いて肩を跳ねさせる。
「何、どうしたの急に」
小松ちゃんは得意の訝し気な表情を浮かべて、桜ちゃんを半目で睨めつけていた。
「毎日銭湯じゃ飽きるよぉ……」
桜ちゃんはソファに顔を埋めて呪詛のように呟いた。
「飽きるも何も、自分ん家でしょうに」
「全然部活っぽいことできてないんだもん」
湯けむり部らしい活動をしたいということなんだろう。私としては、毎日銭湯に通うのも非日常感があって楽しいのだが、銭湯の娘はそれじゃ満足いかないのも当然か。
「決めた! ゴールデンウィークに三人で温泉に行こう!」
上体をガバリと起こして桜ちゃんは宣言する。相変わらずの無鉄砲さだった。
◇
次の日の放課後、私はいつも通りにきくの湯に向かう。
学校の前の坂を下り、住宅街に入るといきなり場違いな銭湯が現れる。高い煙突は空まで伸びて、銭湯の存在をこれでもかと主張していたが、その割に意外にもこの辺りの住人からの認知度は低い。
バスに乗って先に着いているであろう小松ちゃんと、下校のチャイムがなるとすぐに教室から飛び出して行った桜ちゃんを追って、古ぼけた暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ。あら、あなたがゆいちゃん?」
暖簾くぐってすぐに、左上から柔らかな声が降ってきた。驚いて番頭台を見ると、知らない女性が座っていた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは」
この声、ポニーテールにした髪型、雰囲気、そして何よりその胸に鎮座する立派なブツ。もしかして。
「も、もしかして、桜ちゃんのお母さんですか?」
「えぇ。ウチの桜がお世話になってます」
やはり桜ちゃんのお母さまだったか。通りで私の人見知りレーダーの反応が悪いわけだ。
「あの子たちなら桜の部屋よ。後でお茶持ってくわね」
「ありがとうございます」
てっきりいつものように休憩室にいるものと思っていたけど、今日はお母さんにも会うし、何かとイレギュラーだ。
お母さんと言えば、桜ちゃんのお母さんは専業主婦で日中桜ちゃんがいない間は、さっきみたいに店番をしているらしいが、今まで一度も出くわさなかった。これも何かの偶然なのか、不思議なもんだ。かれこれ三週間はここに入り浸っているというのに。
そんなことを考えながら軋む廊下を歩いて、桜ちゃんの部屋に着く。
「お、ゆい! やっと来たね!」
「やっほー」
ローテーブルを挟んで、二人は何やら雑誌を眺めているらしかった。
「ちょうど今、ゴールデンウィークはどこの温泉に行こうかって話してたんだ。ゆいちゃんもこっち来て見なよ」
私がいつもの部屋の角に座ろうとすると、桜ちゃんが自分の横のクッションをポンポンと叩いて、ここに座れと促してくる。私は、クッションに座るのも気が引けたので、クッションを膝の上に抱えてカーペットに直接座った。
「草津、伊豆、下呂、道後、別府。色々あるのねぇ」
小松ちゃんはいつも通りの眠そうな目で旅行雑誌に目を落としていた。下呂温泉か。響き的に一番行ってみたい。吐瀉物ではないことは分かっているけれど。
「私、旭川温泉に行ってみたいなぁ」
北海道のページで捲る手を止めた小松ちゃんが、そう言った。
「北海道かぁ、いいよね。けど遠いんだよなぁ」
「行くとしたら、いくらくらいかかるの?」
「んー、東京からでも三万円くらいかなぁ」
「おぅ……」
さ、さんまんえん。バイトもしていない高校生になりたての私たちにとって、三万円は大きすぎる。二人の会話を聞いて、私はそっと北海道のページを閉じた。
「ゆいはどこ行きたい?」
「え……、うーん……?」
二人の話をただ聞いていただけの私に、いきなり話題を振られても困るのだが。しかしまぁ、行くとするのなら比較的近い、関東近郊の草津か伊豆だろう。
「草津か伊豆?」
私は草津のページを開いて二人に見せた。見開きででかでかと湯畑の写真が載っていた。
「草津いいじゃん」
小松ちゃんが切長の目を輝かしてそう言った。
「お、香澄ちゃんも賛成なら草津にしよう!」
こうして、私たち湯けむり部の最初の活動が決定した。
◇
「それで、なんで私たちはお風呂掃除してるのかしら……」
腕まくりをした小松ちゃんがデッキブラシ片手に、腰に手を当てて大きなため息を吐いた。
「仕方ないさ、桜ママのご意向だから」
「ごめんねぇ、二人ともぉ……」
草津に行こうと決めるとすぐに、桜ちゃんはお母さんに報告に行ったのだが、そこで最近家の手伝いをサボっていたのを咎められたらしく、草津に行くのを許す代わりに、風呂掃除を命じられてしまったのだった。そしてそれに私たちが
巻き込まれてしまったわけだ。
風呂掃除と言っても、一般家庭のバスタブなんかではなく、銭湯の大きな大きな風呂釜と、洗い場だ。その労力は計り知れない。
高校指定のジャージに着替えて、デッキブラシで鶯色のタイルを磨いていく。湯の張られていない湯船に入るのは、なんだか新鮮だった。
「香澄ちゃんはさ」
デッキブラシを動かしながら、桜ちゃんが口を開く。その額には
汗が滲んでいた。
「また陸上やりたいとか思ったりしないの?」
「んー、今はないかな」
「そうなんだ」
私は二人の会話を黙って聞いていた。
「でも、顧問に大会は出てくれないかって言われてるんだよね」
「出るの?」
「気が向いたら、かなぁ」
小松ちゃんは心底興味なさそうに言う。小松ちゃんが故意に陸上部をサボっているのは三人の共通認識だが、私にはなんで彼女が陸上から離れるのかが理解できなかった。全国大会にまで行けるような才能ある人間が、その才能を活かさないのは些かもったいない気がするのだ。彼女の中では終わったことなんだろうけど。運動音痴な私や、一部(おっぱい)を除いてちんちくりんな桜ちゃんとは違って、小松ちゃんは背も高いし足もすらりと長い。恵まれた体型であることは誰の目にも明らかだ。
「どうせ全国まで行っても、歯が立たないんだよねぇ」
小松ちゃんはそう呟いて、デッキブラシを一瞬だけ止めて、再び動かした。その一言に彼女の苦労が滲み出ていた。
「やっぱりレベル高いの? 全国って」
「全然違うよ。地方予選は才能だけで勝てても、全国は努力も才能も必要だから。私、努力できなかったし」
そういえば確かに練習が嫌、という話もしていたな。ただ、努力もしない人間が全国に行けるとは思わない。彼女は努力をしても通用しなかったんだろう。私の妄想でしかないが、彼女なりの挫折が垣間見えた気がした。
「もぉっ、広すぎるよここ!」
小松ちゃんは突然叫んだ。タイルに声が反響して溶ける。長々と自分語りをしてしまったのが恥ずかしかったのか、小松ちゃんの顔は真っ赤だった。
「ゆいちゃんもこっち見てないで、手を動かせ!」
「っふぇ? す、すまん」
八つ当たりされてしまった。香澄様の仰せのままに、手を動かすとしよう。桜ちゃんはケタケタと笑っていた。お前も働け。
「そうだ、終わったらみんなで牛乳飲もう!」
桜ちゃんのその言葉に、私たち二人は黙って頷いて掃除を再開した。
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