第2話 温泉部?
桜が散って、新しい季節がやって来た。新しい制服、新しいローファー、新しい鞄。それとリップも新しくした。鏡に映した自分はまるで別人かのように思えた。
私は高校生になった。去年から身長も伸びたし、髪も長くなって、大人びて見えるに違いない。胸はまあ、お察しだが。遺伝を恨むぜ、ちくせう。なんて、つべこべ言ったって、私は高校生なのだ。夢のスクールライフが始まるってことで、私のテンションは最高潮だった。
いつもと景色の違う通学路は、毎秒のように私に新鮮な刺激を届けてくれた。あの銭湯もこの通りにあった。結局、銭湯に通ったのは一日きりで、ついぞ行かなかったが、半年前のあの日のことを忘れたことはなかった。
あの大きな浴槽に、風呂上がり――というか私の場合ぶっ倒れたわけだが――の牛乳。あれからすっかりお風呂にハマってしまった私は、迅速な修理によって一日で直されてしまった我が家のお風呂に、入浴剤を放り込んでお湯に浸かるのが趣味になってしまっていた。元々シャワー派だった私だが、この半年は毎日のように湯を張っていた。
そんなことを考えて、通学鞄を振り回しながら通りかかった銭湯は、もう暖簾がかかっていて、暇そうに佇んでいた。相変わらず暖簾は古ぼけていて、半年前となんら変わらない。特に用もない銭湯の前に突っ立っていても怪しいばかりなので、私は視線をコンクリートに戻して、そそくさと歩き出した。側溝には桜の花弁が溜まっていて、その花弁とあのくたびれた暖簾が重なった。風に吹かれて今にも飛んでいきそうなところとかそっくりだ。そんな失礼で皮肉めいたことを考えながら、私は高校までの道のりをのんびりと歩いていった。
◇
教室はビックリするくらいに静まり返っていた。皆が皆、新しい環境で話す相手がいないだけで、ひと月、いや半月もすれば、この教室も騒がしくなるのだろう。しかし、そんなことは私には関係ない。エリートのボッチ、生粋の人見知りだ。今は誰も話さないこの環境がとてもありがたかった。
私はそんな沈黙の中、空いている席の中から、自分の出席番号の書かれた席を探していた。
十六番は……。一番後ろか。教室の真ん中を突っ切るようにして、後ろの席に向かう。その途中で、私のひとつ前の席に座る少女と目が合った。
「あ……」
「え……?」
てっきり二つ下くらいだと思っていたが、同い年だったとは。それに同じ高校だなんて。世間って狭いんだな。背もちっこいし、声も高いもんだから、もっと年下だと思っていたのに。
「あ……」
向こうも気が付いたらしい。私としては消し去ってしまいたい記憶だから、忘れていてくれてかまわないのに。
銭湯の娘さんだった。どうやら律儀にも私を覚えてくれていたらしい。半年前に一度会っただけなのに。
登校中に銭湯の暖簾が桜の花弁と同じだ、なんて考えてしまっていただけに、勝手に気まずさを感じていた。
おずおずと後ろの席に座り、少女の背中を見つめる。最初は中学一年生と思ったくらいだ。少女の肩は細く、体も全体的に華奢だった。上背もない。ポニーテールにした髪は細く艶があり、ちらりと覗くうなじは真っ白だった。
チャイムが鳴って教師が入ってきても、私はずっと少女の背中をずっと見つめていた。
◇
「説明は以上です。十分休みの後も教室でホームルームがあります。時間には席について待っているように」
そう言って教師は教室から去っていった。また教室には静寂が訪れた。
「ねぇ、私のこと覚えてるよね」
静寂を破ったのは目の前の少女だった。振り向きざまに揺れた髪からは、あの銭湯のシャンプーの香りがした。
「う、うん」
どもりながらも、何とか声にはできた。しかし覚えているとは言っても、名前も知らなければ、どんな人間なのかも知らない。だと言うのに、裸の付き合いをしたことがあるというのは、不思議な感覚で可笑しくなった。
「私、桜です。加賀桜(かがさくら)」
「お、おうともさ」
「お名前は?」
「金澤(かなざわ)、金澤ゆい……」
随分と久々に人と話したもんだから、少しの自己紹介ですら、顔が熱くなってしまう。私は私の人見知りが大嫌いだった。目を合わせた途端に何を話せばいいのか分からなくなるのだ。親とは普通に話せるし、会話の仕方も分かっているはずなのに、いざ話すとなると、口が回らなくなるのだ。
「ゆいちゃんは部活、もう決めた?」
「部活?」
「先生が説明してたじゃん。全員部活に入らないとダメらしいよ」
椅子に横向きになるようにしてこちらに振り向いている加賀氏は、クリクリした目を私へ真っすぐ向けていた。教師の話なんて聞かずに加賀氏の背中ばっかり見ていた私は、部活の話はバッチリ聞き逃していた。無論、部活なんて決めているはずもない。強いて言うならば。
「帰宅部」
「無所属じゃん、それ」
帰宅部は許されないらしい。全国一五〇万人の帰宅部に謝れ。私たちには帰る家があるんだ。
「加賀さんは決めたの?」
「苗字じゃなくていいよー。私もまだ決めてないんだよねぇ」
苗字以外に何と呼べと? 名前? あだ名? いずれにしろ人見知りにはハードルが高すぎる。
「ゆいちゃんが良ければ二人で作ってみない? 部活」
「へ?」
加賀氏はニヤリと笑った。
◇
「どうせ一回きりしか高校生活ってないんだし、やってみたかったんだよねぇ。部活作るの」
そう言って加賀氏はズイズイと廊下を突き進んで行く。階を下りて見えてきたのは、他の学年の教室だった。どこ向かってんだこの女。すれ違う上級生たちは、皆部活に行くのか、ぞろぞろと教室から出てきていた。ほぼ全員が私たち二人の青色の上履きを確認して、なんで一年がここにいるの? みたいな顔をして通り過ぎていく。その視線だけでも、私としては卒倒もんだった。
「ね、ねぇ、どこ向かってるの?」
私は加賀氏の小さな背中を盾にして、できるだけ小さく縮こまりながら、加賀氏に尋ねた。
「どこって、職員室だよ。書類貰わなきゃ」
「な、なるほど」
「ここか」
「ぎゃふん」
急に立ち止まった加賀氏の背中にぶつかってしまった。彼女の見つめる先には職員室の文字があった。
「失礼しまーす」
「え……」
この少女の勢いにはお腹が痛くなってくる。胃薬の買い置きあったかしら。そんなことを考えているうちに、加賀氏はスタスタと室内に入っていってしまう。中途半端に空いたドアからは、何やら加賀氏と教師が話しているのが見えた。
加賀氏は私が入ってこないことに気が付いたのか、私に手招きしていた。私はできるだけ屈むようにして侵入し、加賀氏の肩越しに教師に会釈をした。
「部員として見てられるにはあと二人必要なんだって」
加賀氏は不満気に書類を差し出した。渡された紙を見ると、確かに小さく注釈に『四人以上で部活動として認める』と書いてある。私は入るだなんて言ったつもりはないけど、すでに頭数に入れられているみたいだった。
「メンバー集まったら、その書類の必要事項埋めてまた来いよー。教頭には俺から言っといてやるから」
教師は私たちのことにはもう興味を失ったのか、一瞥もくれずにパソコンをカタカタさせてそう言った。
ちょっと目まぐるしすぎる展開についていけていない自分がいる。え、なに私、部活作んの?
「よし、じゃあ作戦会議だよ、ゆいちゃん。私んち行こう!」
「え、え?」
加賀氏は職員室から出るや否や、次の目的地に向かって歩き出した。何この子の行動力。半年前の清楚な感じはどこ行った。
◇
息をつく間もなく加賀氏に連れ去られ、着いた先は『きくの湯』。加賀氏の家である。正面からは入らず、脇の細い路地の裏口から入って、加賀氏の部屋に通された。旅行雑誌のやたらと多いその部屋は、女子らしい小物は案外少なく、一口に言ってシンプルな部屋だった。
「その辺適当に座ってて。今お茶とお茶菓子持ってくるから」
加賀氏はパタパタと駆け足で部屋を出ていった。部屋にある家具はベッドと勉強机と小さなローテーブルに本棚。ベッドに腰掛けるのも気が引けたので、部屋の隅に体育座りで待機することにした。
「おまたせーって、ゆいちゃんどうしたの?」
「ここが落ち着くのさ」
「ふーん……」
加賀氏はそれ以上の言及はせず、持ってきたオレンジジュースとクッキーをローテーブルに並べて、ベッドに腰掛けた。
「では作戦会議を始めます!」
「おおー……」
私は気のない返事をして、テーブルのジュースに手を伸ばした。
「あ、オレンジジュースで大丈夫だった? お茶もあるけど」
「いや、全然……」
お構いなく、と続けようとしたけど、言葉にはできなかった。申し訳なさだけが膨らんだ。
「我々は早急に部員を集めなければなりません」
加賀氏は急に立ち上がって演説を始めた。
「というわけで、何か案はありませんか」
「私に丸投げなんだ」
「いやいや、私も考えるよ。会議だからね」
勢いは最初だけで、数秒後にはまたベッドに座ってしまった。
「そもそも私、何の部活か知らないんだけど」
「あれ!? 言ってなかったっけ私?」
「うん……」
部活だ部活だと言うだけで、この少女は詳しいことは何も伝えないのだから質が悪い。
「ズバリ! 温泉部です!」
「温泉部……?」
なんとも銭湯の娘らしい発言に、思わずオウム返ししてしまう。
「そう、温泉部! お風呂に入る! それだけの部活!」
ニヒッと笑う加賀氏は、女の私でさえもときめいてしまうような魅力があった。何で温泉部、とか、何で私なの、とか。聞きたいことはたくさんあったけど、この子の笑顔を見たらそんなのどうでもよくなって、とりあえず付き合ってやろうという気になった。不思議な子だ。
「とりあえず部員募集の張り紙とか?」
「うんうん、いいね!」
「思い切って校内放送でアナウンスしちゃうとか」
「おおー!!」
「全校集会をハイジャックとか!」
「おおおー!!!」
気づけば私たちは大声になって、案を出し合っていた。久々に大きな声を出せて、なんだかとてもスッキリした。
◇
「ねぇ、やっぱりやめようよ」
「何いまさらビビってんのさ。あんなノリノリだったくせに」
「うう、でもぉ……」
私たちは昨晩に刷った二十枚程のビラを十枚ずつ抱えて、校内の目のつきそうなところに貼ろうと計画していた。しかし私は日和りに日和っていた。
「ビラ貼るくらいで怖気づかないの!」
「うぇえ……」
なんだか胃がキリキリしてきたぞ。頼むから誰も見ないでおくれ。
「にしても、ゆいちゃん絵上手だよね」
そう、それだ。私がビラをこんなにも嫌がる理由は。昨日調子に乗って、『絵は任せておけ』なんて言ってしまったがために、ビラの挿絵を描いたのだが、いざ大衆に晒すとなると首元が熱くなる。しかし、私のそんな心の声は置き去りにして、桜ちゃんはいたるところにビラを貼っていった。
「これでホントに人来るのかな」
「んー、わかんない!」
私の些細な疑問に、桜ちゃんは満面の笑みで答えた。その無邪気さに毒気を抜かれる。私にはできない笑顔だ。
「今日も私の家で作戦会議しよっか」
「……? 何の?」
「活動計画?」
言っている本人も疑問形だった。要は家に私を呼ぶ口実が欲しいだけらしい。
◇
昨日と同じように狭い路地の裏口から入って、桜ちゃんの部屋に入る。相変わらず部屋は質素だったけど、一日で内装が変わるはずもないか。
「ゆいちゃんは今日もオレンジジュースでいい?」
「うん、ありがとう」
ぶっちゃけ私は甘い飲み物が苦手だ。ショートケーキとかよりお煎餅食べたいし。しかしまだ、お茶がいいなんて言えるような間柄ではなかった。
「さっきも聞いたけど、今日は何の会議なの?」
「んー、思いつかないしお風呂でも行く?」
流石銭湯の娘だ。普通、『友達家に呼んでお風呂入る?』なんて言わないだろ。まぁでも、最近はお風呂にドハマりしている私である。タダで大きなお風呂に浸かれるなら喜んでいこうじゃないか。
「あ、お代はもちろん頂くからね」
「なんてこったい」
がめついヤツめ。
「うそうそ。お友達割引で三百円でいいよ」
「結局金は取るんかい」
やっぱりがめついヤツじゃないかと思ったけど、後々聞いた話によると、かなり経営が厳しかったらしい。寂れてたのは見た目だけではなかったみたいだ。
私たちはギシギシと軋む廊下を進んで、居住スペースと銭湯の部分を分けた暖簾をくぐり、もう一度女湯の暖簾をくぐった。
籠に雑に脱いだ服を突っ込んだ。桜ちゃんは丁寧に服を畳んでいて、意外に思うとともに雑に籠に突っ込んだだけの自分に恥ずかしくなって、服を畳みなおした。
久々の大きなお風呂にワクワクしながら戸を開けた。
ムワリと湿気が体にまとわりつく感覚は嫌いじゃない。大きなタイルの富士に久しぶりと挨拶をして、シャワーの前に腰掛けて湯を体にかけた。銭湯ならではの家よりも少し熱いお湯を浴びる瞬間が好きだった。
「ねぇねぇ見て見て」
「えぇ……」
シャンプーハットを自慢げに見せる桜ちゃんに、閉口してしまう。いかにもツッコミ待ちな表情に腹が立ったので、熱湯をぶっかけてやった。
「みぎゃん!」
ボディに熱湯がクリティカルヒットした桜ちゃんは、大げさなリアクションで悶えた。双丘がたゆんと弾む。
ん? コイツ、貧乳の敵じゃないのさ。着やせするタイプだったとは。私の妬まし気な視線に気づいたのか誇らしげな表情をしてやがる。腹立たしいのでさらに温度を上げた熱湯をかけてやった。天誅。
そんなひと下りを終えて、私と桜ちゃんは体を洗い湯船に浸かった。
「あぁー……、癒されるねぇ」
「……極楽だぁ」
シャワーとは違ってここの湯船のお湯は少しぬるめだった。程よい温かさは長く浸かっているのにちょうどいい。高い壁の一番高いところには窓が付いていて、青空が覗いていた。鶯色のタイルと空の青のコントラストが心地よい。ジワジワと温かさが体の芯に伝わってきて、心が浮かび上がりそうになる。隣の桜ちゃんもボケーっと何も考えていなさそうな顔をして寛いでいた。
「ゆいちゃん、知ってる?」
「ん?」
主語のない疑問に答えられるはずもなく、私は桜ちゃんの方を向いた。
「お風呂って健康にいいんだよ」
「そんくらいは……」
デトックスだの何だのと、テレビで観たような気がする。お風呂や温泉が健康にいいのは周知の事実だろう。
「お風呂ってすごいよねぇ。古代ローマでも愛されてたんだもん。ゆいちゃんはお風呂好き?」
「うん、好きだよ」
「私昔は嫌いだったんだぁ。お風呂屋の娘なのに」
桜ちゃんは喉をクツクツとさせて笑った。
「昔ね、おじいちゃんに温泉に連れて行ってもらってね、でも小さい子供に温泉の良さなんて分からないじゃない」
「うん」
「けどわざわざ貸し切り温泉を予約してくれてね、おっきな湯船をプールみたいにして泳いだのがすごい楽しくって」
お母さんには怒られたけどね、と桜ちゃんはまた喉を鳴らした。
「それからお風呂が好きになったんだ」
独白は続く。
「半年前さ、ゆいちゃんもここで泳ごうとしてたよね」
桜ちゃんはプッと噴き出した。やっぱりあれは見られていたのか。恥ずかしい限りだ。
「人がいないからね、この銭湯は。泳ぎたくなるのも分かるよ」
「……」
「ねぇ、ゆいちゃん」
「?」
「私の夢はね、この銭湯を人でいっぱいにすることなんだ」
桜ちゃんは遠くを見ながらそう言った。そして私の目をしっかりと捉えて言った。
「手伝ってくれない? 私の夢叶えるの」
ヘラヘラしていた桜ちゃんの急な真剣な表情に、私はなんて言っていいか分からなかった。
「もちろん、部活としてちゃんと活動はするよ! それのついでに手伝ってくれないかなってだけだから、強要はしないよ!」
桜ちゃんは元の笑顔を浮かべてそう言った。私が何も言わなかったから、断られるとでも思ったのだろうか。
「私にできることなんて、ほとんどないだろうけど……」
「いいのいいの!」
「それなら……」
「ホント!? ありがとうゆいちゃん!!」
「っぐへ」
桜ちゃんが抱き着いてきた。いくら彼女が小柄とは言え、至近距離からの勢いは殺せず、もろにボディに喰らってしまう。
彼女の豊かな胸部も押し付けられて、貧乳の私は不快だった。やっぱり断わってやろうかしら。
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