いわこう湯けむり部!
雨田キヨマサ
第1章
第1話 きくの湯
次々と巣へと帰っていく蟻の群れを眺めて、ああ、今日も終わるんだなあ、とボンヤリ考えていた。
お前たちは、汗かかなくていいなぁ。蟻たちに語りかける。
汗でべたつく八月の終わり、我が家の給湯器の故障により、私は今日から銭湯に通うことになってしまった。
近所にある、昔ながらのお風呂屋さんの歴史は意外にも古く、私のひいおじいちゃんが子供のころには既にあったらしい。そこに向かって、だんだんと影の濃さを増す道を歩いていた。
銭湯に着くころにはすっかり日も落ちきって、あたりは夜の帳に包まれていた。
The銭湯といった外観の『きくの湯』は、住宅街の中に窮屈気に収まっていた。どこか懐かしさを醸し出すこの銭湯は、近隣の住民の憩いの場、というわけではなく、寂れに寂れきっていた。叩けば埃の立ちそうな古びた暖簾のかかる戸を軋ませながら開けると、おじいちゃんだかおばあちゃんだか判らないような人が一人、マッサージチェアに座っているだけだった。
靴を脱いで下駄箱に突っ込んで、ロビーと呼ぶべきなのか、休憩室のような所へ上がった。どこを見回しても古臭さは否めない。置いてある体重計にはモニターが付いていなくて針だけだし、さび色の扇風機だって首を振れるか怪しいくらいに古い。おじいちゃんなのかおばあちゃんなのか判らない人の座るマッサージチェアも、ひじ掛けの革が擦り切れてからし色の綿が見えてしまっている。おまけになんだ、あの椅子は。背もたれからコップを下向きにひっくり返したような形のモノが伸びている。まるでマッドサイエンティストが実験で頭に被せて脳波を測るヤツ、みたいな。ちょっとワクワクするじゃないか。
「あの、お代……」
「へあっ!? ビックリした!」
私は見慣れないモノたちに夢中で、入り口の横にある、一段高くなった所に座っていた少女に気が付かなかった。突然その子に話しかけられたもんだから、思わず腰を抜かすところだった。
「お代頂けないと、入れないですよ」
「あっ……! ごめんなさい!」
すっかりお金のことを忘れていた。なるほど、これが番頭台ってやつなのか。そしてこの少女が番頭さんってわけだ。ずいぶんと若い番頭だなあ。中三の私よりも二つくらい下に見えるから、一年生くらいかな。家の手伝いなのだろうか。偉いなあ。
そんな若い番頭さんにお金を渡して、私は女湯の暖簾をくぐった。
脱衣所に入ってもやはり誰もいなかった。同年代の女子なんてハナから期待しちゃいないが、せめておばあちゃんの一人くらいいて欲しかった。銭湯という下町文化が嫌いじゃない私としては、かつては町人たちの憩いの場であったであろうここが、こんなにも寂れてしまっていることが、どうにも心苦しかった。けれど、広い浴槽を独り占めできてラッキーなんて思っていたりいなかったり。
カラカラと浴室に続くドアを開けると、湿気がムワリと体を包んだ。銭湯であることを目一杯アピールするかのような、タイル張りの富士山がまず目に飛び込んできた。名刺代わりのその絵はところどころタイルが欠けていて、過ごした年月を窺わせた。
◇
「ふぃー」
体だけ洗い流してしまって、さっそく大きな湯船に浸かる。手足を思いっきり伸ばしてやった。家では決してできないこの解放感。今なら泳いでみても大丈夫だろうか。怒る大人もいないし。小学生の頃、きっと全国のキッズが夢見たであろう、大浴場での水泳。私は今、その長年の夢を叶えようとしている。
しかしカラカラと戸の開く音がした。
「……」
「……」
いざ泳ごうと、中腰の変な格好になった私に冷たい視線が突き刺さる。さっきの番頭の少女だった。絶対零度の視線に体が凍り付いてしまいそうで、そそくさと肩まで湯に浸かった。ちくせう、私の夢が。
戸を開けた少女は、こちらに一頻り冷えた視線をくれたあと、黙ったまま体を洗い始めた。
え、お風呂入るの、あの子。てっきり清掃かと思ってしまったが、清掃なら裸にならないかと自問自答する。少女が体を洗うのを眺めながら、鼻の下まで湯に沈めて湯をブクブクとさせた。
多分あの少女はこの銭湯の娘さんかな。きっといつもこの時間にお風呂に入るのだろう。普段なら人もいないこの時間に入るのが習慣なのに、私が来てしまったことで、客と一緒に入らざるを得ない、的な。
妄想は湯の泡と一緒に弾けていく。私の指はだんだんとふやけてきていた。
「お隣失礼します」
体を洗い終わった少女が私の隣まで来て湯に浸かる。広い湯船の中、スペースはたくさんあるはずなのに、わざわざ私の隣に座ったことにムズムズとした居心地の悪さを覚えて、居た堪れなくなった。
何か話しかけたほうがいいのかな。しかし、活発そうと言われることの多いその見た目の反面、いささかシャイすぎる私には、自分から話しかけるなんて荷が重すぎる。
「あの」
そんなことを考えていたら、少女が話しかけてきてしまった。
「……」
何とか声にしようとした言葉はうまく出せず、少女の方に振り向いて口をパクパクするだけに留まってしまった。銭湯という、乾燥とかけ離れたところにいるはずなのに、喉がカラカラに乾いてしまって、うまく声が出せない。アワアワと手振りだけが大きくなって、傍から見たらかなり滑稽だろう。
「大丈夫ですか?」
少女が苦笑交じりに問いかけてくる。大丈夫じゃないです。何だか段々クラクラしてきたぞ。私の人見知りもとうとうここまで重症化したか。バタンキュー。
「え!? 大丈夫ですか!?」
視界が暗くなっていく。ニンゲンコワイ。
◇
「……あれ?」
「あ、よかった、起きた」
夢から覚めるような感じがして周りが明るくなった。無意識的に、ああ私倒れたんだな、と察した。景色は突然湯船から脱衣所に変わって、私は全裸のまま、腰にタオルが掛けられて、ベンチに横たえられていた。あの少女が運んでくれたのだろうか。小さな体のわりに随分と力が強いみたいだ。
「これ飲んでください」
そう言って少女から渡されたのはビン牛乳だった。私は体を起こした。
「ありがとう」
口から出た言葉は、思ったよりも掠れていて恥ずかしくなる。その恥ずかしさを誤魔化すように牛乳を一気に煽った。
「突然倒れたんでビックリしたんですけど、大丈夫ですか?」
少女は心配気な表情を向けた。やっぱり私はのぼせてしまったらしい。
「ええと……、その」
何か答えようとしても上手く喋れない。少女は変わらず心配気な表情をしたままで、脱衣所に沈黙が流れる。この沈黙に耐え切れず、段々と恥ずかしくなってくる。こうなるといつも私は毛穴がプツプツと開いて、どんどん体が熱くなってくる。
「……?」
少女の顔が胡乱気なものに変わっていく。何か言わなきゃ。
「そ、その! 助けてくれてありがとうごぜぇやした!」
お礼を言おうとして、江戸っ子の成り損ないみたいな言葉遣いになってしまった。私の恥ずかしさはさらに加速した。
「大丈夫そうですね。よかったです」
少女はそう言って微笑んだ。その笑顔があまりにも綺麗で見とれてしまったが、不意に自分が全裸だったことに気が付いて、やっぱり恥ずかしくなった。少女はパジャマに着替えていて、さらに私が浮いてるように思えてしまった。
恐る恐る立ち上がって、脱衣籠に走る。何だ、この状況。恥ずかしいにも程があるってばよ。
急いで服を着て、残った牛乳を飲み干し、ダッシュで逃げ帰った。
その後のことはよく覚えていない。
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