第18話 日記帳
葬儀から帰宅するなり玄関にリュックを放り出した。
キッチンの時計を見ると、時刻は19時を回っていた。
そこでようやく、俺は朝から何も口にしていない事に気づく。
「飯……食わなきゃ」
食欲があるわけではない。
ないことはわかりつつも、手癖のように冷蔵庫を開く。
中には飲みかけの水と、色が変わったレタス。
引越し前日ですらこんな寂しい事にはならないだろう。
冷蔵庫を乱暴に閉める。
雨水を吸ったように重たい足で寝室へ。
テレビもスマホも電気も点ける気になれず、暗い部屋の中、ベッドに横たわった。
背中越しにぐっしょりと湿った感触。
どうやら、随分と雨に打たれたらしい。
着替える気にもなれず、そのまま目を閉じた。
どれくらい経っただろうか。
爪先から脳髄まで疲労感に覆われているはずなのに、眠気はこない。
雨音と、秒針が時をすすめる音だけが鼓膜を震わせる。
脳裏にはずっと……"人生ノート"のことが雨雲のように浮かんでいた。
「……くそ」
起き上がる。
そのまま玄関へ。
床に放置されたリュックが物寂しげに俺を見上げている。
リュックを開き、中から”人生ノート”を取り出す。
学習机に座ってから、大きく息を吐いた。
そして、ノートに手を添える。
自分が今、どんな感情なのかすらわからない。
どんな行動原理でノートを開こうとしているのかすらわからない、わかりたくない。
胸のあたりがカラカラで、パサパサな事だけはわかる。
ただただ、恵美の残滓を追い縋るように1ページ目を開こうと……。
──いつか、ひーくんには見せる日がくるかもね。
恵美の声が脳裏に響く。
それで、ハッとした。
世界に色が戻ってくる。
感情に、水分が戻ってくる。
人生ノートを開こうとしていた手を……その手を、引っ込めた。
無理だった。
開くことができなかった。
見ることができなかった。
怖かった。
これを読んだら、恵美に関する全てが終わってしまうような気がして。
もう二度と、恵美と会えないような気がして。
1ページ目を捲ることが、出来なかった。
震える手で、人生ノートを手に持って、本棚の隅っこに押し込んだ。
全身から力が抜ける。
本棚を背に、項垂れるように座り込む。
どれくらいそうしていただろうか。
気がつくと、息が荒くなっていた。
「……恵美」
その名を口にすると、溢れ出してくる。
恵美との思い出が、フラッシュバックのように。
同時に、脳髄を刺すように蘇ってくる。
今日の葬式の光景。
遺影の中で笑う恵美。
冷たく動かなくなった彼女の肢体。
彼女の端正な顔立ちは綺麗で、今にも目を覚ましてくれそうで。
目の奥が熱が灯り、何かがせり上がってくる。。
ダメだ、止めることができない。
目尻を両指で押さえつける。
溢れ出そうになった熱い雫を、無理やり押し留めていると、
ピン、ポーン。
控えめなチャイム。
誰、だ……?
玄関に向かう途中、もしかして、と思う。
もしかしての予感は、現実となった。
「ゆう、な……?」
「ひどい顔だね、秀人くん」
心配色を浮かべた優奈が、スーパーの袋を手に立っていた
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