第16話 いつかの記憶
それは、いつかの記憶。
確か、今年の春くらいの出来事。
机に覆い被さるように背中を丸める恵美に、俺は尋ねた。
『何書いてんの?』
『ひゃっ』
びくぅっと、恵美はご飯中に背中を触られた猫みたいに飛び上がった。
『な、何も書いてないよひーくん!』
『その表情と動作でそれは無理があるだろ!』
『わからないよ? もしかすると最近流行りの”背中を丸めることで集中力を高める呼吸法トレーニング”に没頭していた可能性も!』
『じゃあその背中に隠したノートらしき物は何?』
『ひーくん今日は何食べたい?』
『カルボナーラ。で、その背中に隠した物体は?』『ひーくんひどい! そこは詮索されたくない乙女心を察してそのまま夕食の支度に移るところだよ!』
と言いつつも、恵美は観念したように背中に隠していたブツを俺に見せた。
『……日記帳?』
『違う違う、人生ノートだよ』
よく見ると、表紙には控えめな文体で”人生ノート”と書かれている。
物も、薄っぺらいキャンパスノートではなくしっかりと厚みのあるヤツだ。
『私もひーくんも、いつかは死ぬじゃん? その時に何も残ってないのって、ちょっと寂しいと思うんだよね』
『ああなるほど! それで、自分が確かに存在していた証みたいなのを残したい、って感じか』
『さっすがひーくん! 伊達に私の彼氏やってないね!』
『つまりは日記帳ってことだよな?』
『そうとも言う』
俺のツッコミはカケラも意に返さず、恵美はくすすと笑った。
『にしても、なんで唐突に?』
俺が言うと、ぴたりと恵美の動作が止まる。
『んー、気分?』
顎に人差し指を当てて、恵美が言う。
『なんかさ、歳をとるごとにだんだん死の気配って感じるじゃん? 小学校の頃に感じた1年が、高校になったらうんと短く感じたり、美味しく食べられてた脂っこいものが、胃もたれするようになってきたり』
『まだ高校生なのになかなか枯れた思考になってんね』
『あはは、そうかも。でも、それよりもさ』
一転、恵美は表情に影を落とした。
『ひーくんとも、いつかお別れの日が来るんだなーって思うと、何も残らないのはちょっと寂しいなって思って』
言われて、確かになと思う。
当たり前の事実だけど、まだ高校生の俺にはピンと来ない事実。
普通は毎日、目先のことだけに集中していて、そんな何年先、何十年先の事とか考えない。
でも、いつかみんな死ぬ。
お母さんも、お父さんも、友達も、学校の先生も、テレビの中で輝くスターも、SNSでフォロワーウン十万人もいる神絵師も、最近産婦人科で生まれた赤ん坊も。
そして、恵美も。
みんな、いつか死ぬ。
100年もしないうちに、この世からその痕跡は消えてしまうだろう。
『……俺も、日記つけようかな』
『あははっ、ひーくん、感化されすぎー!』
唐突に、甘くて安心する匂いが覆い被さってきた。
恵美に後ろから抱き締められたのだ。
『大丈夫だよ、当分は死なないから』
胸の前に回された手に、俺は自分の手を重ねる。
『俺だって、心身ともに超健康体だからそうそう簡単に死なないよ。少なくとも、あと50年は』
俺の言葉に恵美は一瞬、ぴくんっと身体を震わせた。
どうしてかはわからない。
『そっかそっか!』
いつもの明るい調子に戻った恵美が身体を離す。
『ちなみに、どんなこと書いてるん?』『ダメー! 見せません!』
胸に抱き締めるようにして日記帳を隠す恵美。
『彼氏の俺でもアクセスできない極秘ファイルってわけか』
『そそ! 乙女の最重要機密なの』
そう言って、恵美はわざとらしく恥じらいのポーズをとった。
『……まあ、でも』
ゆっくりと、日記帳を見下ろす恵美。
『いつか、ひーくんには見せる日がくるかもね』
そう言って笑う恵美の表情はどこか儚げで。
俺が推し量ることができない、様々な感情が滲んでいるように見えた。
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