第4話 泣いて、いいよ?
多分、どうしようもなかったんだと思う。
赤ん坊が生まれの親を選べないのと同じくらい。
本当に、どうにもならなかったんだ。
昨日、俺は恵美と些細な事で喧嘩をした。
発端は、本当に些細なこと。
アパートで一人暮らしをしている俺が、あまりにも部屋の片付けをしないから。
朝、寝坊して慌てて着替えている途中、床に放置していたリモコンを踏んで盛大に転んでしまった。
一緒に登校しようと迎えにきてくれていた恵美が、そんな俺の醜態を見て一言。
『ほらぁ、私の言った通り片付けしないから〜』
きっかけは本当に、些細なことだった。
恵美の小言に対し、俺が『お前はオカンか』と返し、『オカンも何も、片付けは生活の基本でしょ?』と返ってきた。
そこからの言い争いは不毛な上にくだらなさすぎるため割愛する。
きっちりタイプな彼女と、何かとルーズな俺。
生活習慣の違いからくる、今までの小さな積み重ねがボヤを起こしたに過ぎない。
とにかく、俺と恵美は喧嘩した。
喧嘩と言っても怒鳴り合いとかじゃなくて、ちょっと雰囲気が悪くなるくらいの軽いもの。
俺の登校準備が完了する前に、『もう、知らない!』とへそを曲げた恵美が先に家を出てしまう程度のものだった。
何度でも言う。
本当に些細なきっかけだった。
でもその”些細”が、取り返しのつかない大事(おおごと)になった。
恵美が先に家を出て一人になってすぐ、俺は冷静になった。
なんつーくだらないことで喧嘩したんだろうと。
恵美の言ってることは至極正しい。
俺が転んだのも、一人暮らしをいいことに片付けを怠った結果だ。
言い返してしまったのは、俺のちっぽけなプライドが疼いたから。
ただそれだけだった。
謝ろうと思った。
ごめん、俺が悪かったって。
今までもそうやって、仲直りしてきたように。
決めたら行動は早かった。
こういうのはすぐに謝るのが大切だ。
急いで着替えを済ませカバンを持って家を出た。
恵美と何度も歩いた通学路を走って。
3回目に差し掛かる交差点で──目にしてしまう。
電柱にぶつかって大破した自動車と。
血溜まりに横たわった恵美の姿を。
◇◇◇
偶然には二種類ある。
自分にとって良い方向に作用した偶然を奇跡と呼び、悪い方向に作用した偶然を不幸と呼ぶ。
恵美には文字通り、不幸が襲った。
わき見運転でハンドル操作を誤った車が、恵美に突っ込むという不幸が。
その不幸の事実に、未だに実感を持てない俺がいる。
血濡れてボロボロになった恵美の制服も。
額から流れ出る赤い命の源も。
恵美の名を何度も呼んだことも。
大人たちの怒号も。
しばらくしてやってきた救急車のサイレンの音も。
救急車ので、恵美が意識を失う寸前に呟いた”ごめんね”も。
手術室に運び込まれる恵美の姿も。
ほどなくやってきた警察官の事情聴取も。
事情聴取中に、恵美の容体が急変したことも。
集中治療室に駆けつけた時にはすでに、恵美が息を引き取っていたことも。
享年16、2週間後に誕生日を控えていたことも。
解放された後、そのまま家に帰って眺めた薄暗い天井も。
追ってやってきた感情を爆発させたいと裏山に登ったことも。
恵美の後を追って自分もここから……と崖から身を投げようとした意思も。
ぐっちゃぐちゃになって自暴自棄になった感情を収めようとKOKORONE-心音-をインストールしたことも。
アプリで繋がった優奈に事の顛末を明かして少しだけ気分が楽になったことも。
翌日の今日、恵美の机の上に置かれた菊の花の花瓶を見て、再び到来した鉛のように重い気持ちも。
それら全てに現実感がなかった。
いや正しくは、”現実だと認めたくなかった”
現実と認めたら、実感してしまうから。
好きだった。
大好きだった。
心の底から愛していた。
ずっと一緒に居るものだと確信していた、俺の彼女。
空乃恵美。
彼女がもう、目を覚さないことを。
彼女ともう、話すことができないことを。
彼女ともう、手を繋げないことを。
彼女をもう、抱き締めることができないことを。
──彼女がもう、そばにいないということを。
それを実感してしまったら俺は……耐えられないと思った。
だから、俺は感情に蓋をすることにした。
とにかく気持ちを明るい方向へ向けた。
無理やり、笑顔を作って。
虚無からプラスの感情を作り出した。
じゃないと……壊れてしまいそうだったから。
「ダメだよ、こんなことしちゃ」
俺の心を読んだように、優奈が言う。
「自分の気持ちに素直にならないと……久山くんの心、壊れちゃうよ……」
ぎゅうっと、背中に回された腕に力がこもる。
温かい、いい匂いがする。
不意に、目の奥が熱くなった。
何かがせり上がってくる感覚。
ああ、ダメだ。
これはいけない。
慌てて目を瞬かせた。
「こら」
両手で頭を掴まれる。
視線が強制的に上を向く。
至近距離で端正な顔立ちが、怒ったように変化した。
「また、我慢しようとしてる」
「……なんの、こと?」
「昨日の電話でも、秀人くん、泣くの我慢してたでしょ?」
息を呑んだ。
目を見開いた。
その変化を、優奈は見逃さなかった。
「やっぱり」
悪戯をした子供を叱るような表情。
「辛い気持ちは溜め込まないで、しっかり出してあげた方がいいよ」
そっと頭を撫でられて、また優しく抱き締められる。
甘い、落ち着く匂いが鼻腔をくすぐる。
思考が落ち着いて、悟った。
悟ってしまった。
彼女の言葉は正しい、と。
「……本当に、どうしようもなかったんだ」
「うん」
震える声で言うと、優奈が頷いてくれる。
「どうしようもなかったって、わかってるけど……考えてしまうんだ」
「うん」
「もし、あの時、恵美と喧嘩せずに一緒に登校してたら……恵美は死ななかったんじゃないかって」
「うん」
「もし、俺が床にリモコンを置きっぱなしにしてなかったら……きちんと片付けをしていたら……」
「うん、うん」
「恵美は……えみは……」
限界だった。
その限界を悟ったように、優奈が言う。
「辛かったね」
──。
「しんどかったね」
────。
その言葉に、意図的に凍らせていた心に微かな温度が戻って、
「………………うん」
肯定した途端、何かが壊れた。
「この部屋には、私しかいないから」
優奈の声は、震えていた。
「泣いて、いいよ?」
優しく、首筋のあたりを撫でられて。
俺は決壊した。
もう我慢ができなかった。
優奈の身体に縋り何度も恵美の名前を呼んで赤ん坊のように泣きじゃくった。
どうしようもなかったんだ。
だって、防ぎようのない不幸だったから。
わかってる、わかってるんだ。
だけど。
だけど、だけど、だけど!
なんで恵美がって。
なんでなんだよって拳を握り締めた。
やり場のない怒りだってことはわかってる。
それでも、感情が自己完結を許さなかった。
もっと一緒に話したかった。
もっと一緒に色々なところに行きたかった。
もっと色々な表情を見たかった。
もっと一緒に、いたかった。
そんな彼女は、もういない。
大好きだった恵美は、もうこの世にはいない。
俺の最愛の人、恵美はもう……。
「大丈夫……大丈夫……」
怒り、悲しみ、哀しみ。
感情の奔流に身を任せ声をあげて泣き続ける俺に、優奈は何度も言葉を繰り返す。
「大丈夫、だから」
昼休みが終わるチャイムが鳴ってもずっと、優奈は俺のを抱き締めたまま頭を撫で続けてくれた。
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