第25話 法は守るためにある
また赤信号か。
エイイチを追うクリスタリナは、またしても横断報道で停止した。
エイイチは彼女に気づくことなく、一心不乱にペダルを漕いでいた。それは自動車顔負けな速度であったが、女神たるクリスタリナも負けてはいない。人を超越した脚力を持つ彼女であれば、軽く走るだけで距離は縮まり、即座にエイイチを確保できる……はずだった。
しかし追い始めて十数分、毎回あと少しというところでこうやって足止めをくらい、なかなか追いつけないでいるのだった。
これにはあきらかな理由があった。というのも、エイイチには遵法精神というものがまるで無かったからである。
黄色信号で交差点を突っ切るのは当たり前。無茶な車線変更を繰り返し、停車車両の隙間をジグザグにすり抜けては、強引に右折してしまう。
これにはクリスタリナもたまらない。深夜の人気がない赤信号でもきちんと待つ彼女は、こんなときでも交通ルールを破ることができなかった。『法は守るためにある』というのが、彼女の信条である。いくら容疑者を追跡するためとはいえ、ただでさえ謹慎中の身分の者が、そう安々と法を破れるわけがない。ゆえに、どうしても距離を引き離されてしまうのだった。
マルパスなら空でも飛んで一発なんだろうが……
と、クリスタリナは思ったが、それは重大な世界観違反。奴と同レベルに堕ちるつもりなどさらさらなかった。かといって、ただ黙って見ているような彼女でもない。法は遵守するが、その枠内でやれることは何だってやってやる。なまじここまでキャリアを積み重ねてきてはいないのだ。
愚直に赤で止まらずとも、追う方法は他にもある。
そう考えた彼女は歩道橋を全力で駆け上がり、地下道を駆け下りて、ショートカットを試みた。信号のない狭い路地を先回りし、薄くなりがちな匂いに必死に食らいついて、やっとエイイチの背中、あの特徴的なデリバリーバッグをとらえられそうになったときだった。
クリスタリナは目を見開いた。
彼女の数メートル先、エイイチが爆速で突っ切っていくのは、八車線と六車線が交わる大きな交差点である。高架下で視界も悪く、平素より事故の多い場所であるが、今まさに赤信号を直進する彼の側方、橋脚の陰から大型トレーラーが迫っていることにクリスタリナは気がついた。されど彼は手にしたスマホに夢中で、一切避けようとする気配がない。
轢かれる!
思わずクリスタリナは手を伸ばした。彼女の頭上にまばゆい光の輪が出現し、トレーラーのタイヤの摩擦係数が急上昇して、車体は間一髪で停車した。
ガッシャーンッッ!!
と派手な音を立てて、自転車ごとエイイチが転倒した。当然、交差点は騒然となったが、しばらくして、彼はのっそりと立ち上がった。どうやら怪我はしなかったようである。蓋が大開きとなったデリバリーバッグの中には何も入っておらず、最悪の事態を回避できたことにクリスタリナはほっとしたが、同時にしまったと思った。
トレーラーの運転手がエイイチを怒鳴りつけ、エイイチがペコペコ頭を下げて倒れた自転車を戻し再びペダルを漕ぎ始めると、ただでさえも高ぶるクリスタリナの心臓は、なおさら荒く波打つのだった。
やってしまった。
何事もなかったかのように疾走していくエイイチを追いながら、クリスタリナはひどい後悔に襲われた。
ついにこの世界で魔法を使ってしまった。謹慎中なのに、私は一体何をしているのだ。
たとえ人命救助のためとあっても、神の力でこの世界の物理法則に影響を及ぼしていいわけがなかった。それは赤信号を破るのとはわけが違う。光輪の目撃者がいなさそうなことは不幸中の幸いだったが、彼女は割り切れない思いを拭えなかった。
そもそも、彼を追ってどうするつもりだったんだ? 謹慎中なのだから、逮捕も取調べも規則違反だ。よほど重要な証拠を、マルパスを黙らせすべてを覆すことができるほどの情報が得られなければ、地獄行きもありえるんだぞ。こうやって追跡しているのだって見方次第では……
そんな悔恨はじわじわと身体をむしばみ、ここまでのハードワークもたたって、クリスタリナの脇腹が痛み始める。滝のように汗が流れ、両足はぐんと重くなって、徐々にまた距離が開きそうになったが、エイイチはとあるマンションの前で自転車を停めた。
それは巨大な、あまりにも巨大すぎるタワーマンションであった。
クリスタリナも立ち止まり、電柱の影に身を隠した。荒い息遣いを強引に抑え込むと、かーっと頭に血が上っていくのがよくわかった。視界がぼんやりと赤くなって、自責の念にいよいよ飲みこまれそうになったところで、彼女は強く拳を握りしめた。目に力を込めて、自転車に鍵をかけるエイイチをじっと見据えた。
……でも、仕方ないじゃないか。
内心、そうつぶやかざるを得なかった。
そもそもマルパスがすべて悪いのだ。奴にハメられた私は、正義のため、なんとしても真実を暴かねばならないのだ。そうだ。それに私はマルパスのように証拠を隠滅したり、保身のために魔法を使ったわけじゃない。でも……
ええい。
エイイチがマンションのエントランスへと歩き出したのを見て、クリスタリナは大きく頭を振った。濡れた銀の髪から汗の飛沫が飛び散り、アスファルトを黒く濡らした。
切り替えろ。今はただ、あいつの行動を観察するんだ。
彼女はそう念じて耳を澄まし、エイイチがインターフォンを鳴らす一部始終にだけに意識を集中した。
数秒後、
「ウーパーです」
と、エイイチは言った。
黒く四角いバッグを担いた彼の身なりを考えると、それ自体はごく普通のセリフであった。
けれど、彼のバッグには何も入っていない。ここが飲食店で料理を受け取りに来たのならともかく、ここはマンション、配達先のはずだ。
そんな違和感を覚えた瞬間、クリスタリナは驚愕した。
「入れ」
と、インターフォンから聞こえてきたその声が、マルパスのものだったからである。
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