第24話 喘ぎ声の正体

 ――翌日。


「はっ! くぅ! うぉあぁぁっっー!!」


 クリスタリナはそんな声を出しながら、バーを強く引いた。エイイチの部屋とまったく同じ間取りの小さなワンルーム、その右半分を占拠する筋トレマシンの上で、彼女はいきり立っていた。


「うっ! はっ! ふぁぁあっっっー!!」


 一日経っても、マルパスへの怒りは収まらなかった。


 昨晩はろくに眠れず、クリスタリナは今、無性に体を痛めつけたい気分だった。ベッド代わりでもあるマシンの上で、トレーニングウェア姿の彼女は胸を張って腕を上げると、広背筋を意識して息を吸う。力強くバーを引いて、吐きながら戻す。


「あぁっ! なぁぅっ! あぁぁあんーーっ!!」


 モヤモヤとした感情を押し流すように加重を上げて、もう一度,

さらにもう一度、と彼女は繰り返す。ビキビキと悲鳴を上げる筋繊維、肩や背中に加わる痛みに声が漏れたが、マルパスに対する憎しみが散らされることはなかった。


 クリスタリナの頭に絶えず浮かぶのは父のことであった。


 彼女の父は、かの有名な神モルペウスであった。夢を司るあのモルペウスである。


 他者の夢を自在に操ることができた父は、幼いクリスタリナにも楽しい夢を見させてくれて、彼女もそんな父を尊敬していた。ところがある日、その夢を誘発する力ゆえ、モルペウスは地球と呼ばれるこの世界で麻薬モルヒネの語源となってしまう。そればかりか、その責任を天界から追求されて、彼は失意のまま自ら命を絶った。


 こんな理不尽なことがあるか、とクリスタリナは憤った。父は自ら麻薬を作ったわけではなかった。悪事を企む何者かが、モルヒネの元となるケシを地球ここに持ち込まねば、こんなことにはならなかったのだ。


 彼女はその何者かを憎んだ。父の人生を狂わせた麻薬をこの世界から消し去りたい、そう思った。ゆえに麻薬取締官になったのである。そうして今日に至るまで、すべてをなげうち仕事に全力を注いできたのだった。


 というわけで、クリスタリナにとって生活の質など二の次だった。麻薬取締官の給料は決して悪くない。トリシェなどはもっとずっと良いマンションに住んでいる。だがクリスタリナは家賃などにカネをかけず、給料は全部、肉体を鍛えるか、知識を身につけるためだけに使ってきた。彼女が座る筋トレマシンの反対側、部屋の左半分は厳つい本棚が占めている。棚の中にはこの世界の医学書や薬学書が隙間なく詰め込まれ、溢れたものが脇にうずたかく積まれていた。


 そんな本棚の方を眺めながら、彼女はラストスパートをかけた。


「うぉぉぉっっっ!!」


 憎きマルパスの顔を思い起こし、ここぞと力を振り絞る。父の名誉を傷つけただけでなく、局長の立場を利用した彼女の悪事を絶対に許すわけにはいかなかった。違法薬物に関わる犯罪は、どんな権力者であろうが、たとえ神であろうが関係ない。必ず罰せられないといけないのだ。


「はっ! くぅぅっ! あっ、はぁっ……」


 そこで限界が来た。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」


 彼女は息をつきトレーニングを中断した。ワークアウトドリンクを飲み干し、別の部位を鍛えようかとも思ったが、ずっと部屋にいても煮詰まってしまうような気がした。


 走ろう、外の空気を吸って頭を冷やそう。そう考えて、彼女は部屋を出た。


 冬の弱い日差しを浴びたところで謹慎中であったことを思い出したが、“自宅で”とまでは言われていないと考え直し、アパートの階段を駆け下りた。局長権限といえど、プライベートまで制限することはできないのだ。


 いつもように河川敷に沿って走る。もやもやを打ち消すように、走って走って走り続ける。


 寒さはすぐ暑さに変わる。汗が吹き出し、喉が粘つき、ルーチンのコースを半分ほど消化して、ちょうど大きな橋のたもと付近へ来たとき、橋の上を走る一台の自転車がクリスタリナの目に入った。


 向こう岸から猛スピードで走ってくるのは、安っぽいジャージを着て黒いデリバリーバッグを担いだ少年――エイイチであった。


 あの子なんて名前だったっけ、と彼を見たクリスタリナは思った。隣室に住む少年であることはわかったが、彼女は彼のことをよく知らない。一度アパートの郵便受けですれ違ったことがある、それくらいだ。


 だからクリスタリナは特に気にもとめなかった。エイイチもまた、橋の下をジョギングする彼女の存在を認識していないようだった。


 されど、エイイチが乗った自転車がちょうど頭上を通過していったタイミングで、クリスタリナは驚き立ち止まった。


 唐突に、エリクサーの匂いが漂ってきたからである。


 思わぬ事態に、彼女は自らの鼻を疑った。が、あの甘い匂いを間違えるはずもない。なぜと考えているうちにも、エイイチはぐんぐん彼女から遠ざかっていく。甘い香りもその速度に応じ薄くなり、彼がその匂いを発散しているのは間違いなかった。


 ……追わなくては!


 しばらく呆然と立ちつくしていたクリスタリナであったが、隣の部屋に住むあの少年が何らかのかたちでエリクサーに関わっていると直感し、急ぎその後を追うのだった。

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