第6章 (偽装)勇者と(潜入)女神

第37話 知らんかったん?

 気づいたときには倒れていた。


 エイイチは最初、自分がどこにいるのかもわからなかった。彼が仰向けになっているのはすり鉢状の窪地の中央、瓦礫と燃え殻がそこかしこに散らばる殺風景なところだった。何もかもが徹底的に破壊され、荒廃していた。だが360度階段状に配置された観客席だけはわずかにその原型を残しており、どうやら勇者一武道会の会場跡地なのだろうと、彼は時間をかけて理解した。


 クリスタリナはどうなった?


 続いて湧き上がった疑問に体を起こそうとすると、腹に激痛が走り、エイイチは嗚咽を漏らした。


 見ると、鎧のプレートの隙間、右の下腹から赤い何かが飛び出しているようだった。赤い何かというのは要するに腹わたで、思わず目をそらすと、余計痛みが増して涙が溢れた。


 あーこれ死ぬな、と彼は思った。間違いなく致命傷であった。


 文字通りの意味で急速に血の気が引いていく。エイイチの体はありえないほど虚脱して、立ち上がることなど到底不可能に思われた。あとはもう、大の字になったままぼんやり空を眺めることしかできなかった。

 

 上空ではクリスタリナとマルパスが死闘を繰り広げていた。


 それは絵画のような光景だった。


 クリスタリナには天使の羽根が生え、衣服を着ていない裸のドラギちゃんがその背中にマルパスをのせて咆哮していた。女神たちは湾の方へと移動して、巨大な月の下、お互いに火球を打ち合っている。数秒おきに攻守が入れ替わり、そのたびごとに爆音が上がり、光がまたたく。黄、赤、白と、目まぐるしく変わる空の色はとても夜には思えない。


 クリスタリナがかわした火球が近くの山に激突する。


 それは常軌を逸した破壊力で、山に漫画のような風穴が開く。怒涛のごとく熱風が押し寄せ、エイイチの肌を泡立たせる。


 そんな情報量に疲れを覚え、彼は自然と目を閉じた。


 もうウメコは救えないだろう、そう思った。だけど自業自得だよな、そうも思った。俺は罪を犯した。麻薬だって運んだし、オルディアも殺した。いくらウメコを助けるためにとはいえ、報いを受けるのも当然だ。だからもう――


 しかしそこで、大きな羽音がエイイチの思考を切り裂いた。


 バザリッ、バザリッ、というその凶暴な風圧は、エイイチの血液や内蔵を吹き飛ばしていくかのようだった。マルパスに見つかったか、そう思ったエイイチがまぶたを開くと、そこには魔王が立っていた。


「え?」


 エイイチは息を詰まらせた。


 魔王は痛ましい姿をしていた。目は血走り、いつも着ているアッパーアーマーのコンプレッションウェアがボロボロに破れていた。紫の皮膚もそこここで鱗が剥がれ、人と同じ赤い血がにじんでいた。


 まさしく間一髪城から逃げ出してきたという風体の魔王は何も言わず、厳つい肩を持ち上げた。ほとんどの爪が無残に欠けた両腕がぬっとエイイチへ伸びた。


 殺される。


 そう思ったエイイチは再びまぶたを閉じた。彼は決して魔王を裏切ったつもりなどなかったが、これまでの経緯からそのように思わせてしまったのは事実だった。


 死を覚悟して、その時を待つ。


 が、


 エイイチにその時は訪れなかった。


 かわりに突然、体がぼうっと暖かくなるのを彼は感じた。ふわふわと空中に舞い上がるかのような心地だった。それは快感とも違う、懐かしさすら覚える不思議な感覚。腹の痛みがすぅっと失われ、血液の流れが著しく速くなったのがわかって、彼は目を見開いた。


「え?」


 魔王がエイイチの腹に、なにやら赤い液体をふりかけていた。


 液体は魔王の指の間からこぼれ落ちていた。その節くれだった指先につままれているのは、見覚えのある赤いカプセルだ。それは魔王の手と比べると小さいが、エイイチにとってはとても大きい、もう二度と見たくない、あのカプセルであった。


「なんで?」


 カプセルの中身が最後の一滴まですべて振りかけられたところで、エイイチの口から驚きの言葉が漏れた。赤い液体は血液を介し彼の体に吸収され、腹の傷が完璧に塞がっていた。


「気ぃついたか?」


 魔王が答えた。


「……これは一体?」


「一体もなんも、生き返っただけやろ」


「え? あの……これってなんのクスリなんですか?」


「なんや自分、知らんかったん?」


「はい」


「エリクサーや」


「エリクサー?」


「せや。これ飲めば体力と魔力が全快する」


「え? いや……でもなんでっ!?」


「ちょっとちょっと魔王様! なんでこいつなんかにエリクサー使うシカ!!」


 エイイチの脳裏をよぎった疑問を、聞き覚えのある声が代弁した。


 見ると、魔王の後方、すり鉢の際にオルディアが立っていた。あのシカの獣人は死んでなどいなかった。


「もったいないにも程があるシカ!」


 彼はわめきながら小さな木製のリアカーを引きずり、エイイチたちのいる底へと滑り落りてくる。リアカーの荷台にはむき出しの赤いカプセルが大量に積まれており、彼もまた魔王城から逃げ出してきたみたいだった。


 彼は今一度エイイチを一瞥すると、魔王向かって息を切らす。


「だってこいつは魔王様を殺す気だったシカ!」


 そんなオルディアの頭を魔王がこついた。


「アホウ!」


「ディアッ!!」


 ポキリ、とオルディアの頭から生えかけの角が折れた。


「な、なんで殴るシカ!?」


「敵やとか味方やとか、んなこと今は関係あらへん。弱っとるもん叩いてもしゃーないやろ。バトルゆうんはお互い万全で戦うからおもろいんや。知らんけど」


「す、すみませんシカ!!」


 エイイチはそんなふたりのやりとりを眺めながら、自分の身に起こったことを改めて理解した。これまで自分が運んできた薬物は、あらゆる傷や病を治す伝説の霊薬エリクサーだったのだ。


 それならば。


 そう思って、エイイチは魔王に切り出した。


「あの、ちょっといいですか?」


「なんや?」


「エリクサーって、何か副作用があったり、依存したりとかそういうのってあるんですか?」


「一切ない」


 と、魔王は答えた。


「普通に回復するだけや」


「お前いまハッピーシカ? 幻覚見えるシカ?」


「いや、そんなことはないですね……」


 そんなやり取りを行いながら、エイイチは興奮を覚えた。エリクサーさえあれば、ウメコを助けられると思ったからだ。


 なんとしてでもエリクサーを持ち帰ろう。


 と、彼は決心する。マルパスの罪を信頼できる人物とやらに報告する前に、ウメコにエリクサーを飲ませるのだ。


 それは犯罪だとも思ったが、エイイチはその気持ちをぐっと飲み込んだ。彼がこれまで犯してきた罪が、この一回を正当化していた。元の世界の金持ちだけが健康になって、ウメコが健康になっちゃいけない理由など何もない。これまでマルパスにそのことを伏せられてきたことも決意を後押しし、彼はすっかり元通りになった腹に力を込めて言葉を紡ぐ。


「魔王様、お願いです。俺にエリクサーを売ってもらえませんか?」


「は? 自分何ゆうとんねん!」


「頭おかしくなったシカ?」


「おカネなら払います! 剣も鎧も差し上げますから」


 エイイチは手をついて立ち上がると、腰に据えられたままの剣を外しその場に放り投げた。次いで兜を脱ぎ捨て、鎧に手をかけながら続ける。


「必要ならば元の世界からでも払います。ビッドコインでもなんでも、言われた額を一生かけて支払います。だからっ! 一個だけでいいので!」


 鍛冶師が作った鎧はもうすっかりボロボロで、ドサドサと鈍い音を立てて地面に落ちる。


「お前アホシカ? そんな汚い鎧が売れるわけないシカ?」


「なら、この世界から安全に脱出できるルートを教えます」


「そんなの嘘シカ」


「嘘じゃないです。上で戦っている女神から脱出ルートを教えてもらいました」


「信じられんシカ。魔王様、もう行くシカ」


 そう言ってオルディアは魔王を促したが、魔王は動かなかった。


「その話、ホンマか?」


 魔王が低い声で言った。


「本当です」


 エイイチは魔王を見据え答えた。魔王の瞳はナイフのように鋭かったが、ここで引いたらすべてが終わってしまうと彼は思った。ウメコのため、千載一遇のチャンスをふいにするわけにはいかなかった。


 しばらくして、魔王が言った。


「……わかった。その情報がホンマなんやったら売ったるわ」


「ありがとうございます!」


 エイイチは頭を下げると、クリスタリナに手渡された紙を広げながら言葉を続ける。


「これが……、これが地図です!!」


 地図を見た魔王とオルディアは一瞬顔をしかめ、お互いに目配せしあった。それは手書きの簡易的なもので、エイイチにもその真偽は定かでなかった。オルディアが無言で首を振り、エイイチは緊張に体をこわばらせたが、数秒後、魔王が言った。


「わかった、信じたろ。嘘ならその場で殺したるさかい、覚悟しとけや」

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