第28話 潜入
キュ、キュ、キュッ、という耳障りな音と、クリスタリナのわずかな息遣いだけが郊外の廃工場に響いている。彼女の手にはトリシェがくすねてきた悪魔の杖が握られていて、杖がコンクリートの床でこすれるたびに少しずつ、しかし着実に魔法陣が作られていく。
クリスタリナはベルナンケイアへの潜入を目論んでいた。
この世界での証拠探しは、どうやってもマルパスの影がチラつき難しい。となると、魔王からエイイチへエリクサーが受け渡される瞬間を狙うのがもっとも確実なように思われた。エリクサーを製造している魔王とその運び屋であるエイイチ、両者をエリクサー製造工場ごと押さえることができれば、さすがのマルパスでも言い逃れは難しいだろう。それが彼女の考える計画であった。
空調のない工場の中は寒かったが、クリスタリナの額にはうっすらと汗がにじんでいた。彼女は今日もくたびれた黒いスーツを身につけており、それはベルナンケイアの世界観には少々似つかわしくないものであったが、今回はその方が都合が良かった。彼女は取締官としてではなく、一般人に偽装し潜入するつもりなのだ。不運にも交通事故に巻き込まれ転生を命じられた会社員、その設定だと、あらかじめ現地に合わせた服を着ていくほうが不自然だった。
一ミリの誤差もない真円の大枠、その内部に紋章が刻まれ、いよいよ魔法陣が出来上がってくると、クリスタリナは自らが行おうとしていることの犯罪性をしひしひと実感する。杖を持つ手に力が入り、嫌でも心がざわついてしまう。
トリシェの言う通り、『法は守るためにある』が聞いてあきれるな。
そんなことを考えて、彼女は乾いた笑いを漏らした。局長のマルパスと違い、権限のないクリスタリナが転移魔法を行使することは明白な違法行為であった。その罪は、エイイチを助けるためトレーラーを止めたことなどとは比べ物にならぬほど重い。そもそも魔法自体が高度過ぎて、彼女の魔力では悪魔の杖というブースター装置なしにそれを施行することすらままならないのだ。
だが、クリスタリナの決意が揺らぐことはなかった。
チャンスはまさに今しかなかった。彼女の行いはたしかに違法であったが、あと二日半ほどで、麻薬取締官としてマルパスを逮捕することすら違法になってしまうのだ。それに今になって思えば、エイイチに魔法を使ったことが一つのターニングポイントだったのだろう。あそこから、クリスタリナ自身どこかふっきれたような気持ちを覚えていた。それは言い方を変えればヤケクソ、捨て鉢な状態であったが、彼女はこれもマルパスの悪事を暴くため、正義のためだと、胸のうちに心理的なバリアを張って誤魔化していた。
そうして、複雑な魔法陣が完成した。
杖を壁際に立て掛け、一息つこうとしたところで、トリシェから連絡が入る。
「エイイチがぁー、ベルナンケイアに入ったよぉー」
その言葉に、スマホを持つクリスタリナの手がぎゅっと強まった。行くぞという思いとともに、本当にこれでいいのか? と、幾度目かの罪悪感が心のバリアにヒビを入れるのを、今一度「行くぞ!」と声に出してぼやかした。力んだその声は無人の工場にこだまして、やがて消えた。次いで魔法陣が輝き始め、彼女の横顔を青く照らした。
ついにこのときがやってきた。
クリスタリナはスマホをメキメキ握りつぶすと杖の側に打ち捨て、魔法陣の中央向かって歩き始める。
今度こそ、父の名誉を取り戻す。
そう自分に言い聞かせ、真円の中心にたどり着いたクリスタリナは偽造パスポートとチケットを生成し、背筋を伸ばした。
直後、一段と魔法陣が輝き、彼女の身体は虚空に消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます