第4章 女神麻薬取締官
第22話 異世界麻薬取締局
――異世界麻薬取締局。
それはこの世に存在する無数の世界、その間で流通する違法薬物の捜査や追跡を行う天界所属の機関である。その宇宙-地球-日本分局は、都内一等地に存在する。オフィスビルの高層階というのは一見目立ちそうであるが、外資系製薬会社の名前で数フロアまるまる借り上げられたそこを疑うものは誰もいなかった。
平凡なサラリーマンに擬態した神や女神たちが出入りする、そんなオフィス内の奥まった一角、他から隔絶された密室の中で、スーツ姿のふたりの女が緊迫した表情で向かい合っていた。
ひとりは立って、もうひとりは座っている。
ふたりは揃って黒いスーツ姿であったが、豪勢な執務デスクに座る女のスーツは上質な生地をしている一方、デスクの前に立つ女のスーツは傷み擦り切れていた。また座っている女の肌は白く透明感があって、髪は美しいピンク色であったが、立っている女の褐色肌には無数のかすり傷が目立ち、その白銀の髪も汚れ黒ずんでいた。
「どうして釈放なんですか?」
と、立たされているほうが言った。
それはよく通る声で、凛々しいその声の持ち主は、麻薬取締局所属の取締官、女神クリスタリナであった。異世界から持ち込まれる違法薬物の捜査を行うべく天界から派遣された彼女は、身分を隠しこの世界の住人として暮らしていた。エイイチの隣のアパートに住み、栗栖というのも偽名であった。
彼女は続ける。
「彼がエリクサーを使用していたのは間違いありません」
そんなクリスタリナの発言を受けて、座っているほうの女が怪訝そうな顔をした。
「さっきから、君は一体何を言っているんだ。彼は財界きっての大物だぞ。そんな傑物がエリクサーなんて使うわけがないだろう」
そう答えるピンク髪のその女は、もちろんあのマルパスである。彼女はクリスタリナの上司、異世界麻薬取締局日本分局の局長であった。もちろん彼女の業務はクリスタリナと同じであるが、彼女は違法薬物のブローカーという裏の顔も持っていた。彼女は局長という最も疑われにくい立場を利用して、エイイチに密輸を指示していたのである。
しかし、そんな裏事情をクリスタリナが知る由もない。
「そんなっ!? 私が突入したとき、血まみれの女性が何人も倒れていたんですよ!」
彼女は机の上に並べられた物品を指差し声を荒げる。
「証拠品を見てください! これらが使われたに違いありません!」
マルパスの幅広なデスクの上には、様々な物品が所狭しと並べられていた。電動ドリルやハンダゴテ、折りたたまれた血塗れのレインコートにブルーシート、チェーンソーなどといった剣呑なものばかりである。
これらはすべて、あの太った男のマンションからクリスタリナが押収してきたものである。彼女はちょうどエイイチと入れ違いに、あのマンションに突入していたのであった。
「奴は間違いなくエリクサーを使っています!」
と、興奮するクリスタリナに冷めた上目遣いを投げかけながら、マルパスは答える。
「血まみれといっても、別に誰も負傷していなかったみたいじゃないか」
「それこそエリクサーが使われた証拠じゃないですか!」
「だが、その現物はなかったのだろう? ならこれも……」
マルパスは改めて証拠品に目を下ろすと、鼻で笑いながら言葉を続けた。
「これも、別に使われたわけじゃないんじゃないか? IT企業の社長なんだから、ドリルやペンチくらい持ってるだろう? チェーンソーがあったって不思議じゃない」
「そんな無茶苦茶な……」
牽強付会な論理にクリスタリナが言葉を詰まらせると、マルパスが畳み掛ける。
「無茶苦茶だろうが、現物がなければ誤認逮捕だ」
「いや……」
「不用意に疑われ、貴重な時間を奪われたと氏はお怒りだ。この責任はどう取るんだ?」
「そんな……」
「このビルだって彼が所有している。このままではここの運営にも支障がでる可能性がある。君はそこまで考えていたのか? なぁっ!」
マルパスはここぞとばかりにまくし立てた。目を尖らせ、鼻息を荒げ、ピンク色の髪を振り乱した。
そんなマルパスの剣幕に、クリスタリナは圧倒された。正直クリスタリナは、そこまで考えて行動したわけではなかった。カネやこの世界の政治が大事なのもわかる。わかるが、彼女はただ、彼女の正義感に従って捜査を行っていただけなのだ。
むしろ証拠がないことこそおかしい。これだけのものがあって、なぜ逮捕できないのか?
彼女は上司から詰められていることより、そのことに苛立っていた。こんなところで無駄な時間を過ごすくらいなら、今すぐあの男を尋問して、薬物のありかを吐かせたい、そんな思いで頭がいっぱいだった。
が、
不意に甘い匂いが鼻先をくすぐり、クリスタリナは我に返った。それはとても甘くフルーティな匂いで、こんなときこそ冷静さを保とうと、声のトーンを落として彼女は言った。
「でも、匂いがしませんか?」
「匂い?」
「そうです、証拠品からエリクサーの匂いがしませんか?」
「君、匂いって、ドラゴンじゃないんだから」
「匂いはともかく、どうして尿検査しないんですか? 付着した血液のDNAだって!」
「しつこいぞ!!」
マルパスは大声でクリスタリナの発言を遮ると、証拠品の上に手をかざした。直後、ピンク髪の頭上に光輪が出現する。
「なっ?」
間髪入れずマルパスの全身がまばゆく発光し、クリスタリナはとっさに手を伸ばしたが、間に合わなかった。
「何をっ!?」
一瞬にして、机上の証拠品が白い炎に包まれていた。魔法の炎に煙は立たず、金属製の工具やブルーシートもあっけなく光の粒となって消えていく。クリスタリナはジャケットを脱いで必死に炎をはたくも、決して消えぬ炎はジャケットをも見る間に無へと変換していく。
「証拠品になんてことをっ! いったい何を考えているんですか?」
「それはこっちのセリフだよ。君こそ、魔法で証拠品を燃やすなんてなんてことをしてくれるんだ」
「魔法を使ったのは局長でしょう?」
「は? 君は何を言っているんだ? 魔法を使ったのは君だろう?」
「そ、そんな嘘が許されるわけがないっ!」
バンッ、とクリスタリナは両手を机に叩きつけた。執務デスクの上では何もかもが失われ、いまや炎すら立ち消えんとしていた。
「このことは
クリスタリナは身を乗り出し感情を高ぶらせた。犯罪を隠蔽するだけでなく、自分にその罪を着せようとまでするマルパスの卑劣さが許せなかった。
けれども、マルパスは動じない。
「あのねぇ、ヒラの君と局長の私、
「なにっ!?」
その瞬間、マルパスの頭から光輪が消えた。
「証拠品を燃やしたあげく、上司に楯突こうだなんて女神の風上にも置けん。さすがにモルペウスの娘だ。素行が悪い」
「本当に……!」
クリスタリナは憤った。自分だけでなく、父モルペウスのことまで侮辱された彼女はいてもたってもいられなくなった。怒りは彼女の頭上に光の輪を作り出し、クリスタリナはマルパス向けて右手を伸ばす。
「お、またしても魔法を使うのか?」
マルパスが煽るようにそう言って、クリスタリナはハッとする。そのねちっこい喋り方が余計頭にきたが、ここで魔法は使えない、そう考え直し思いとどまった。
天界以外での魔法の使用は禁止されている。薬物に限らず、現地の世界観を乱す行為はたとえ神であってもご法度なのだ。だからこそ、普段クリスタリナたちは光輪も羽根も隠して生活しているのである。
これは罠だ。今ここで魔法を使えば、それこそ向こうの思うつぼだ。どんな言いがかりをつけられるかわからない。
そう考えたクリスタリナは唇を噛み締め、辛うじて自分を押しとどめた。伸ばした腕の指先がみっともなく震えているのが見てとれた。
しかし突然、
「きゃあっ!」
と、マルパスが素っ頓狂な声を上げて、オフィスチェアごと後方に転倒した。彼女は同時に魔法の風を巻き起こし、壁際の本棚が派手に倒れ、乱気流で天井の照明が粉々に割れた。
クリスタリナの髪も激しく吹き上がり、急な出来事に驚いたのもつかの間、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「こ、これは違法行為だぞっ!!」
他の職員たちが駆け込んできたところでマルパスが叫んだ。彼女の頭には光輪がなかった。タイミングよく消されていた。一方、クリスタリナの頭上にはまだそれが残っていた。職員たちの視線がクリスタリナに集中し、やられた、と彼女は思った。
クリスタリナはマルパス向かって手をかざし、ひとり構えたままの姿勢であった。
「こ、これはっ……」
彼女は言い訳しようとするが、職員たちの目が痛く口ごもる。どこまで卑怯なんだとマルパスを睨みつけるも、当のマルパスは軽くはねのけ、クリスタリナにしかわからぬ程度に口角を上げる。
「この件は……」
マルパスは駆け寄ってきた職員の手を借りわざとらしく立ち上がると、これまた嘘くさいしかめ面で訴えた。
「この件はすべて、
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