第21話 街の薬物汚染が深刻です

 ヤバいヤバいヤバい。アレ絶対栗栖さんだった。


 彼はマンション近くのネットカフェに飛び込むと、ブースの中に閉じこもり、小さく身体を縮こまらせた。


 もし今日、あの喘ぎ声が聞こえてこなかったらどうしよう。


 そう思うと、アパートに帰ることなどできなかった。あの後栗栖さんがどうなったのか、エイイチにはわからない。わかるわけなどなかったが、あの太った男の部屋は異様で、嫌な想像しか浮かばなかった。まぶたを閉じると、嫌でもあの美しい銀髪がよみがえる。いつもの喘ぎ声までもが聞こえてくる気がして、彼はヘッドホンを両耳に押さえつけ、見たくもない動画を爆音で再生する。


 けれど、その程度で雑念は散らされない。


 自分はなんて仕事をしていたんだ。いきなり胸に刺すような痛みを感じ、彼は服の上から胸をかきむしった。ジャージは冷たく、どこか酸っぱい臭いがした。


 正直、金持ちが勝手に気持ちよくなっているだけだと思っていた。それが、まさか、あんな……


 ここにきてようやく、カプセルの使われ方を理解したエイイチは底抜けの恐怖を覚えた。それは、彼がこれまであえて考えずにいたことだった。いったい自分が何をしているのか、その結果誰が巻き込まれ犠牲になるのか、彼は改めて思い至った。


 馬鹿だった、とエイイチは後悔した。


 こんなことをして、これ以上カネを稼いでなんになる? 電動自転車なんて買ってどうすんだ? 向こうでいくらチヤホヤされたって、ウメコに怖がられるようなことしてちゃ意味ねーだろ!


 そうして、エイイチは決意した。


 辞めよう。きっぱり辞めて、手を引こう。


 彼は蒸れて汗ばむヘッドホンを外すと、ポケットからスマホを取り出した。


 マルパスに辞意を伝えるためメッセージを入力しようとするが、指先がこわばりうまくいかない。ジャージの裾で汗を拭って何度もやり直すうちに、逆に彼女のほうからメッセージが入り、小さな悲鳴とともにスマホが手から転がり落ちた。


 それは、次の配達の依頼であった。


 慌ててスマホを拾い上げると、続けざまに配達先を知らせるメッセージが来て、エイイチはいよいよパニックに陥った。


 その配達先が、ウメコが入院している病院だったからだ。


 なんでなんでなんで? 病院って一体、どういうことだ??


 わからない。だがマルパスにウメコのことを知られちゃいけない、エイイチは本能的にそう思った。彼は浅い息を繰り返しながら、なんとかマルパスに返信のメッセージを打ち込んだ。


 今、辞めるだなんてとても言えなかった。


 ウメコに何かあったら、どうなってしまうかわからない。だから彼は、しぶしぶマンションに弁当を取りに行く。全身がバラバラになりそうな焦燥を抱えたままインターホンを鳴らすと、「ニャウギャウ!」と聞き慣れたドラゴンの声とともにドアが開く。


 なんだ? なんでマルパスが出ない?


 不思議に思いつつエレベーターで最上階に向かうと、待っているのはドラギちゃんだけである。


 そこでマルパスからさらなるメッセージ。


『急用が入った。弁当はドラギちゃんから受け取ってくれ』


 は?


 エイイチはますます混乱した。辞意はおろか、文句すら言えず、彼はドラギちゃんから弁当箱を受け取ることしかできなかった。ドラギちゃんは賢く、大きな手で小さな弁当を器用に手渡してくれたが、その仕草もエイイチの不安を膨らませるばかりだった。


 とにかくこれが最後だ。これで運び屋は終わりだ。エイイチはそう自分を奮い立たせるようにして病院に向かう。


 いまや日が暮れつつあった。ちょうど病院に到着する頃には夕日が沈み、街灯に明かりが灯り始める。


 肝心の配達先は病院の救急搬入口前としか言われていない。


 その救急搬入口とやらがどこかわからず、エイイチは病院の広い敷地をせわしく旋回しながら、数ある病棟群に落ち着きのない視線を投げかけていく。


 ウメコが入院しているのは巨大な大学病院だ。大勢の患者が入院していて、職員たちもそれ以上に出入りしている。確率的にカプセルがウメコに関係する者の手に渡る可能性は低い。だから大丈夫だ。


 しかし、低いはずの確率が的中する。


 救急搬入口は一番大きな建物の裏側、人気の少ない奥まったところにあった。予想外に小さなドアの前で待ち構えていたのは、白衣を着て白縁メガネをかけた中年男性――ウメコの主治医であった。


「へぇ、君が……。意外だな」


 主治医が言った。


 エイイチを見た彼は一瞬驚いたようだった。エイイチもまさかの展開に挨拶もできず唖然としていたが、主治医が片手に持ったアタッシュケースを視認して、おそるおそるバッグから弁当を取り出した。


「ありがとう」


 主治医はエイイチから弁当を受け取り微笑んだ。だけど分厚いメガネの裏で、その目がまったく笑ってはいなかった。エイイチは手の震えを悟られないようにするだけで精一杯で、こわごわと彼からアタッシュケースを受け取った。


「なら俺はこれで……」


「あのさ」


 背を向け帰りかけたエイイチに、主治医が言った。


「……もしかして君、これが何か、知ってる?」


 エイイチが振り返ると、嫌な間が流れた。


「……何って、弁当ですよね?」


 エイイチは警戒しながらそう言った。要らぬことを言えばウメコがヤバい、心臓を鷲掴みにされたかのような気持ちだった。まず第一、エイイチは本当に何も知らなかった。自分が運んでいるクスリの正体を誰からも伝えられてはいなかったのだ。


 ふたりは何を言うでもなく立ちつくした。


 エイイチはあくまで平静を装い、弁当片手の主治医も温和な笑みを浮かべたままだったが、ふたりの間にはビリビリと見えない火花が飛び交っていた。


 薄暗い搬入口の非常灯の下で、身を切る冷たい風がジャージ越しにエイイチの肌をなでていった。彼はじいっと口をつぐみ続け、そのまま数十秒ほど時間が経ったところで突然、救急車のサイレンが聞こえてきた。


 先に沈黙を破ったのは、主治医だった。


「知らないならいいんだ」


 徐々に迫りくるサイレンのなか、メガネを押し上げ、彼は続ける。


「そしてこれからも知らないでいてくれるなら、妹さんにとっても、いい話がある」


「いい話、ってなんですか?」


「私が密かに研究している、少し治療法があってね」


 主治医は公にはできないというところを強調しながらそう言った。


「それを用いれば、妹さんは百パーセント完治する。君はわざわざこうしてを届けてくれたわけだし、妹さんをその対象にしてもいいかなと思ってね」


「え」


「どうする?」


「ぜっ、是非お願いします!」


「でも、それには条件がある」


「わかってます。誰にも言いません!」


「それだけじゃなくてだね」


「なんですか?」


「なにって君、そりゃカネだよ。カネ」


「カネ?」


「そう。本来ならタダで、と言ってあげたいところだけど、その治療を行うには莫大な費用がかかるんだ。器材に時間、あとは、表に出ないようにするための人件費、とかね。それにほら、その……」


 そう言って主治医は、エイイチに渡したアタッシュケースを見やって続ける。


「今の私にはおカネがないからさ」


「いくらですか?」


 エイイチは即答した。どうせ自分は非合法なことをしているのだ。非合法な医者の提案を飲むのなど今更だと思った。


「二千万」


 主治医は答えた。


「二千万円。現金で用意して欲しい。そうすれば妹さんを完治させてみせる。どうする?」


 エイイチのすぐ側で、サイレンが止まった。

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