第20話 新しい仕事
「最近お兄ちゃん明るくなったよね。彼女できた?」
病室のベッドでウメコが言った。
「そ、そんなことねーよ」
「またまたー。だって昨日面会来なかったじゃん。連絡なしにお兄ちゃん来ないのって始めてなんだもん」
「ごめん。忘れてたわけじゃなくて」
「別にいい。ってか、そっちのほうが絶対いいって。私なんかより彼女さん大事にしなよ」
ウメコは酸素マスクの下で薄く笑った。彼女は笑ったつもりだったのだろうが、エイイチからは息が上ずっただけにしか見えなかった。その顔は骨が透けて見えるほどに白く、同じく真っ白な首には細すぎるスミレ色の血管が浮かび痛々しかった。
「なに言ってんだよ!」
そんな彼女が痛々しく、エイイチは声を荒げた。先のウメコの発言通り、毎日の面会が途切れ、異世界で彼女のことを忘れていた時間があったことに彼は罪悪感を覚えていた。マルパスとの交渉で懐が暖かくなったからといっても、ウメコが完治するわけじゃない。大概のモノは買ってやれるが、健康だけは買えないのだ。
「また毎日来るからな!」
「……だから無理しなくていいって」
そのとき、マナーモードにしていたエイイチのスマホが振動した。もしかして、と見たら予想通りで、エイイチは表情を失った。
それは、マルパスからの新しい仕事の連絡だった。
やっぱ彼女さん? と茶化す妹を後に、エイイチは適当な言い訳で病室を後にする。
温かい院内から外に出ると、ひどく寒く感じられた。太陽こそ出てはいるが日差しは弱く、冷気がジャージを突き破り、身体の内側にまで染み込んでくるかのようだった。空なはずのバッグもなんだか重く感じられ、エイイチは自転車に飛び乗ると、雑念を振り払うかのようにペダルをこいだ。
十数分後、マルパスのマンションへと到着する。
最上階でエレベーターを降りると、スウェット姿のマルパスが待っている。
「ほらこれ」
と、彼女はエイイチにプラスチックの弁当箱を差し出した。それは安物の使い捨て容器で、中にはあきらかに冷凍なおかずが雑に詰め込まれていた。
「急げよ」
「……どうも」
毎度毎度茶番だな、と思いながらエイイチはそれを受け取った。バッグにしまってエレベーターで一階に戻り、マンションを出た。
やはり風が冷たく、自転車に戻るとマルパスから地図が送られてくる。配達先はエイイチが過去ウーパーで行ったことのあるタワーマンションで、別に見なくても大丈夫、と思った彼はスマホをポケットに戻した。
場所さえわかれば、スマホなんて必要なかった。なぜなら彼は今ウーパーとして働いているのではなく、それに偽装しているからであった。マルパスに手渡された弁当には三個の稲荷寿司が入っていて、油揚げの中には酢飯のかわりに例のカプセルが包まれているのだった。要するに、エイイチはこの世界でも薬の運び屋を任されたというわけだった。
いやだなと思いながら、彼は走り始めた。これは麻薬で、どう考えても犯罪で、公道を走るこの時間がとにもかくにも嫌だった。ペダルを踏む足は重く、しかも今回は直前に妹に会っていたこともあってか、特に気持ちが乗らなかった。
そうやってのろのろと進んでいると、冷たい強風が吹きすさぶ。よろめき車道中央にはみ出したエイイチは、トラックからクラクションを鳴らされる。するといよいよ胸が暗くなって、でも誰も傷ついていないじゃないか、と彼は自分に言い聞かせた。
カプセルの配達先はセレブばかりだった。
場所も高級マンション、有名企業のオフィス、議員宿舎などと、そうそうたる場所ばかりだった。セキュリティに取り押さえられるのではとエイイチは毎度不安になったが、あの四角く黒いバッグさえあれば、あっさりと突破できた。鬼の探知機で探知できないのだから、一般的なX線検査に弁当が引っかかるわけもなく、意外なほどに怪しまれなかった。
金持ちがカネを払って気持ちよくなって何が悪い?
エイイチはそんな言い訳を繰り返しながら、ペダルをこぎ続ける。ベルナンケイアでもみんな喜んでるし、誰ひとり損してないじゃないか! そうだよ、カネは使わなくちゃ。貯め込んでちゃダメなんだ。俺だっていい加減電動自転車なり原付なりに乗り換えよう。てか、服もまともなの買わなくちゃ!
そんなことを考えていると、予定よりわずかに遅れてマンションに到着した。
エイイチは自転車を路駐すると、インターフォンを鳴らした。無言で扉が開き、コンシェルジュから入館証をもらうと、高層階用のエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。
エレベーターから出ると、そこはちょっとしたホールになっていた。
これもマルパスのマンション同様、無意味にデカいエントランスなのだろう。この建物のペントハウスも他に入居者のいない、ワンフロアぶちぬきの構造らしかった。
どうして金持ちはみんな悪趣味なんだろう、そう思いながらエイイチが玄関のインターフォンを鳴らそうと歩き出したところで、これまた豪勢なドアが先に開いた。
エイイチはぎょっとして立ちすくんだ。
中から出てきた太った中年男が、ボクサーブリーフの上から透明なレインコートを羽織った妙な姿だったからである。いや、それだけじゃなかった。ウーパーでも下着姿出てくる客は多いし、レインコートこそ変わっているが、まぁ許容できる。そんなことよりもっと物騒な光景が目に飛び込んできて、エイイチはすっかり固まってしまったのだった。
男の後ろには街のスカイラインを背景にしたガラス張りの広大な一室があって、そのど真ん中に大型のブルーシートが敷かれていた。それ自体はなんの変哲もないブルーシートだったが、その上に裸の女が数人、手足をきつく拘束されて横たわっているのだった。目や口にもガムテープが貼られ、周りには怪しげな金属製の器具が転がっていて、どう見ても危険なオーラに溢れていた。
「待ってたよ。ありがとう」
絶句するエイイチに、男は何気ない調子で言った。むしろ足先でドアが閉まらぬようにして、わざと見せつけようとすらしていた。
「こ、こちらこそどうもっ」
エイイチは慌てて背負ったままのバッグを下ろした。バッグを開く手が震え、取り出した弁当を思わず落としそうになる。笑いながらそれを受け取った男は、かわりに異様な重さのアタッシュケースをエイイチに手渡しながらこう言った。
「もしかして、君も興味ある?」
「なっ、……ないです。ありません」
「一緒に楽しんでってもいいんだよ?」
「結構です!」
「あ、そう。じゃ、またヨロシク」
エイイチは会釈にならぬ会釈をして、男に背を向けエレベーターへと舞い戻った。背後でドアが閉まるとほっとして、早くエレベーターが来て欲しいと思った。
だが、こういうときに限ってエレベーターは来ないのだ。
エイイチは苛立ちながらエレベーターの脇、天井付近に設置されたモニターの映像に目をやって、これまた仰天した。
四基あるエレベーターの一番右、それに一階から乗り込んでくるひとりの女性がいた。褐色肌の彼女は黒いスーツを着ていて、ほれぼれするような白銀の髪を腰まで伸ばしていた。
「嘘だろ!?」
と、声に出して二度見したが、間違えようもない。
あんなスタイルであんな髪型をしているのは彼女しかいなかった。その顔がモニターにはっきり映ると、なおさら確信が深まる。宝石のような碧眼。ふくよかな唇。つややかな小麦色の肌――エイイチの隣人、あの栗栖さんである。
エレベーターに乗り込んだ栗栖さんはカードキーで認証を解除して、迷うことなく最上階のボタンをタッチする。最上階のボタンは他より大きく、階下のボタンに蓋をするような配置になっているので、モニターの四分割された映像でもよくわかった。
なんで、とエイイチは思った。なんでここに栗栖さんが来るんだよ? そしてチラと後ろをうかがい、太った男の部屋で拘束されている女たちを思い浮かべ怖気づいた。
栗栖さんのエレベーターが高速で接近してくるが、それよりも先に別のエレベーターが到着する。
エイイチはその中に転がり込むと、『閉』のボタンを連打した。
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