第16話 浮世離れした隣人
今回、クラーケンはクルーザーを用意してくれていた。
それだけでもエイイチはホッとした。ヌルヌルすることなく魔王城にたどり着くと、ノルマである数十個のカプセルについても、見かねた魔王が魔法を使って胃の中身を入れ替えてくれた。てか魔法で出したり入れたりできるなら最初からそうして欲しいわ、とエイイチは思ったが、魔王の鋭い牙を前にすると苦笑いしかできなかった。
なにが「様式美や。知らんけど」だよ。優しいのか優しくないのかどっちやねん。
世界港に転移し、クソ長い動く歩道の手すりに寄りかかりながら、エイイチはそんな感情を抱いた。だが自らもまた、
三回目ともなると、マルパスに腹をかき回されるのも慣れたものだった。これもたぶん魔法で痛くなくできるはずだとは思うけれど、マルパス&ドラギちゃんは魔王以上に怖く、文句は言えない。なのでエイイチはせめてもの意趣返しにと、前回以上に痛がってみせるのだった。
そうして今回もマルパスから三十万円を受け取ると、エイイチはマンションを後にした。即座にyPadを購入し、病院へ駆けつけた。
yPadを手にしたウメコが、目を大きく見開き言った。
「これ高かったんじゃないの?」
「宝くじ当たったって言っただろ?」
「ホントにー?」
「そ、そんなことで嘘ついてどうすんだよ! ホントだって!」
「ふーん。とにかくありがとね。お兄ちゃん」
「お、おう……」
ウメコの笑顔はやはりどこか陰があるようで、エイイチは密輸はこれきりだと思った。今度こそ真面目に働こう、もう二度とベルナンケイアには行かないぞ、そうかたく心に誓った。
というわけで、彼は今一度彼の日常へと戻った。それはつまり無限のウーパー生活であったが、女神や異世界のことを考える隙を自らに与えないよう、意識してハードに働き続けた。
またもあっけなく、月日が経過した。いつしか暑さは和らいで、夜はすっかり涼しくなった。仕事もやりやすくなって、エイイチは稼ぎに稼ぎまくったが、ある夜とある配達先のマンションの廊下で、扉越しに女が怒鳴った。
「床に置かないでっ! 不衛生でしょ!」
「ならどこに置けば?」
と、ラーメンの入ったビニール袋片手にエイイチは答えた。彼がそれを扉の前に置こうとしたところで、これである。この女に置き配を指定されていたのだが、アプリには「玄関先に置く」としか表示されていない。床に置かず、一体どこに置くというのか?
「ノブに掛けなさいよっ! あ、その前にアルコール消毒なさい! そこにあるでしょう?」
「でも……」
「さっさとなさい! 麺が伸びるじゃないのっ!!」
「はぁ……」
エイイチは言われるがまま、郵便受けの上に置かれたスプレーで手指を消毒し、レバー型のドアノブに袋を引っ掛けた。
恐る恐るドアスコープに会釈して背を向け、エレベーターへ向かう。当然数秒後、レバーが下におりたことで袋が無残に落下して、女の悲鳴が聞こえてきた。
慌ててエイイチが駆け寄ると、「近寄らないでっ!」と女はドアを叩き閉め、その後ろから喚き立てる。
「どうしてノブにかけるのよ! ありえないっ、これだから底辺配達員はっ!!」
「だってそう言われたので……」
「何言ってるの!? アタシはそんなこと言ってませんっ! あー嫌だ。嫌だこんな不衛生なのもう受け取れないわ。クレーム入れますからね、覚悟なさいっ!!」
ドア越しにいきり立つ女のくぐもった声に、無茶苦茶だ、とエイイチは思った。しかし他の住民の手前、商品を放置するわけにもいかず、彼は床に落ちたラーメンを拾う。拾ったら拾ったで女がアルコールがどうだとか喚き始めたが、無視してカバンにしまい踵を返した。
今日はもう帰ろう。
そう思って、エイイチはウーパーをオフにした。
彼は現状、あくせく働く必要などなかった。
ウメコにyPadを買ってやっても、今月分の医療費やら家賃やらを支払っても、彼の手元にはまだ十万円以上残っていた。なんでこんなにストレス溜めて時給千五百円なんだ。そう思うと、また密輸をやればいいじゃんという邪念が一瞬心に浮かんだが、エイイチはぶんぶんと頭を振って否定した。
いくら時給三十万とはいえ、バレたときのリスクがデカすぎるわ。正直、マジで地道にウーパーやるしかないって。それが一番だって……
そんなことを考えながらアパートに戻ると、共同玄関がやけに暗かった。どうやら蛍光灯が切れているようだった。エイイチは大家に言おうかとも思ったが、こちらから訪ねるには夜遅く、訪ねるほどの気力もなくあきらめた。
手元が暗く、郵便受けのダイアルロックをなかなか解錠できずもたついてしまう。エイイチがようやっとそれを開けると、背後から誰かが声をかけてきた。
「すみません」
「あ、すみません」
郵便受けを長く占拠して邪魔になっていたのだろう、エイイチはその澄んだ女の声に謝りながら振り返った。
「へ?」
とたんに、彼はフリーズした。
そこにいたのはスーツを来た若い女だった。浮世離れしている、エイイチは彼女にそんな第一印象を抱いた。
女は褐色の肌に白銀の髪をしていた。腰まで伸びたそのストレートヘアは薄明かりの下でダイヤモンドのように輝いて、少々くたびれた黒のスーツによく映えていた。スタイルも抜群で手足は長く、胸腰尻とプロポーションにメリハリが利いていた。彫りの深さといい、碧眼の瞳といい、明らかに人種が異なっていて、髪型や体つきこそ違えど、どことなく異世界のエルフ女に似ているように思われた。
「すみません」
女はもう一度言った。その声にも凛とした美しさがあるのだった。
「少し退いてもらえますか」
「あっ、ぁすいません」
ぼんやり彼女に見とれていたエイイチは慌ててバッグを下ろすと、脇に退いた。その直後、彼は目玉が飛び出るかと思った。
彼女が蓋を開けたのが、エイイチの隣の郵便受けだったからである。
やすやすとと解錠されたその郵便受けには『栗栖』という表札がはめ込まれていて、これが栗栖さんか、とエイイチは思った。彼はこのアパートに一年以上暮らしているが、直接見るのはこれが初めてだった。女だったんだ。ていうか、栗栖っていうことは日本人なわけ?
当然、エイイチの無言の問いに答えはない。彼が手にしたハガキを熟読するふりをしながら目の端で栗栖さんの様子をうかがっていると、彼女はなんら気にせぬ様子でアパートの階段を上がっていく。
このアパートにエレベーターなんてものはない。栗栖さんから数秒送れ、エイイチも極力足音を立てぬよう階段を上りながら、この人があんなエロい声を? いやこんな人だからなのか? などと考え悶々とする。
もちろん栗栖さんが答えるわけもなく、かわりに階段の陰から鍵穴が回る音。やっぱり彼女は隣の部屋の住人だ。栗栖さんは201に住んでいるのだ。
エイイチは息を潜め彼女が部屋の中に入ったのを確認すると、201の前を忍び足で通過して、これまた静かに鍵を回し部屋に戻った。電気をつけると、換気の悪い部屋の空気がむわっとした。いまなお栗栖さんのことで頭がいっぱいだったが、バッグを下ろしジャージと靴下を脱ぎ捨てると腹が鳴って、廃棄のラーメンがあったことを思い出した。
エイイチはそれを取り出しちゃぶ台の上に置くと、長いため息を吐きだした。
まぁ、とにかく食うか。
ラーメンはスープを吸いきって、麺が伸び伸びになってしまっていた。これじゃ油そばじゃないか、とぼやきながら何重にも巻かれたラップを剥がす。このラップ再利用できそうだな、と考えながら箸を割る。ダマになった麺の塊を持ち上げかぶりつくと、病気になったんじゃないかと思うくらい味がしない。なのに過剰な塩分や油分が含まれている感だけはあって、ゴムっぽい麺を咀嚼するたび、切ない気持ちがこみ上げてきた。
でも、捨てるのはもったいない。
そこだけは譲れぬエイイチは、単調な味や食感を変えるため、豆苗でも入れようと立ち上がった。台所に足を踏み入れると、隣の部屋から艶めかしい声が聞こえてきた。
「あんっ、ふぅんっ、やぁっ!」
例の女のあえぎ声であった。
なんなんだ、とエイイチは思った。なんだもなにも隣室で栗栖さんがあえいでいるだけなのだが、直前に彼女を見ているだけに猛烈に虚しかった。
外で足音がした気配はない。ということは男と同棲してるのか? こんな狭い部屋でヒモでも飼ってるのか? それとも一人で? つか大家が注意したらしいけどなんも変わってねーし、あいつ絶対注意なんてしてねーだろ。
「はっ、あんっ、はあんっ!」
構わず声は続く。壁に共振し、豆苗がパタリと倒れてしまう。
「はぁっ、ああっ、はああああっ!!」
あえぎ声は一定の間隔で続き、食欲が一気に失せていった。引っ越したい、エイイチは倒れたままの豆苗を凝視しながらそう思った。
でも、できない。
と、即座にそんな考えを否定する。多少の貯金があるとはいえ、引っ越すほどの余裕は決してない。そんな贅沢が許されるわけがない。
そんなふうにエイイチがうなだれているとは知る由もなく、栗栖さんは止まらない。
「あぁっ、うぅんっっ、くううぅんっっっ!!」
「俺は異世界じゃ勇者なんだ」
エイイチは栗栖さんの声を上書きするように、あえて声に出して言ってみる。異世界でなら俺はモテモテなんだ。エロいエルフといい感じだったんだ。三回目は検疫も審査も余裕だったんだ、俺はすごいんだ。
けれど、部屋は変わらず乱雑なままだった。
「あっ、あぁんっ、あああああぁぁっっっっーーー!!」
栗栖さんはひたすらにエロく、もう無理だ、と我慢できなくなったエイイチは豆苗を立てて戻した。脱ぎ捨ててあった靴下を履き直すと、靴下は両足とも親指のところが擦り切れていた。
続いてよれよれのジャージを羽織り、穴の開いた靴を履く。サムターンを回し、ドアノブに手をかけたところで思い出す。
あぁ、ウーパーの振りをしないとな。
そうしてエイイチは床に転がる空のデリバリーバッグを担いだ。その瞬間、あえぎ声がひときわ乱れ、豆苗が再び倒れてしまった。
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