第13話 三回目は二回目よりもハードルが下がります
そこから先の記憶はほとんど残っていなかった。
トイレでひり出された三個のカプセルを人目につかぬようよく洗い、服にこびりついたクラーケンの粘液を使って飲み下すと、エイイチはもうヘロヘロであった。
しかし、
結局大事にならず、エイイチは元の世界へと帰還した。またも女神に腹の中をまさぐられたあと、報酬をもらって帰宅した。
正直、生きた心地がしなかったが、今回も茶封筒の厚みだけがリアルで、エイイチは翌朝すぐ大家にカネを返すことにした。
「まぁ、きっちり十万円!」
大家の調子外れな声が耳の裏でキンキン響くと、ようやく現実感が戻ってきたように思われた。
「必要でしたら来月分を先払いしても……」
「あらぁ、別にいいのよ気を遣わなくて。まだ若いんだからそんなの気にしなくていーのいーのよー」
「でも……」
「来月分は来月に払えばいいの! あぁそーだ。お隣には私からしっかり注意しておきますからね! いやよね若い女って節操がなくてあーいやだ」
大家は早口でそう言うと、バタバタ足音を立てて去っていった。エイイチはしばらくその場でぼんやりしていたが、胸の奥がじわじわと暖かくなってくるのを感じた。喉がひくつき、自然と笑みがこみ上げてきた。
二回目の報酬は三十万であった。
大家に十万払っても、カネはまだ半分以上残っていた。その事実に思わず叫びだしたくなって、彼はスキップ混じりにアパートの階段を駆け下りた。
共同玄関の郵便受けを開けると、様々な請求書が入ったままとなっていた。電気代、水道代、通信費、税金年金その他催促のお手紙である。普段なら目を背けたくなるそれらも、今のエイイチには屁でもなかった。彼は紙の束を鷲掴みにすると、コンビニに行ってまとめてきっちり支払った。
二十万が七万程になったが、エイイチは喉に詰まった魚の骨が取れたかのようにすっきりした。
あぁ、おカネがあるっていいなぁ。
こんな晴れやかな気持ちになったのは久々で、彼はちょっと贅沢しようかと、レジから氷菓コーナーへと舞い戻る。いつもなら絶対買わないアイスキャンディーに手を伸ばすも、棚から漏れる冷気にはっとして考え直す。
いや、ダメだ。こういうときこそ節約しないと。
彼は異世界で捕まりかけた昨日のことを思い出した。あんなことになるのはもう懲り懲りだった。あれはたまたま運が良かっただけで、魔王城でシャワーでも浴びていたら地獄行きだったのは間違いないだろう。
だから、エイイチはアイスを買うのを諦めた。そして財布から女神の名刺を取り出すと、小さく折りたたんで店内のゴミ箱に投げ捨てた。
とりあえず滞納してた分はなくなったんだ。これからは真面目に働こう。
そう思って、エイイチはウーパーを起動する。コンビニを出ると真夏の日差しがこれでもかと皮膚を刺し痛かったが、すぐに依頼が入って安心する。さっそく自転車を漕ぎ始めると、きしむペダルの押し返しが彼の気持ちを引き締めた。背中に担いだバッグの慣れ親しんだ感覚もまた、ざわつく心を落ち着かせた。
今日の一軒目は、マルパスのところよりしょぼいタワーマンションだ。「つまみ食いしてるんじゃないでしょうね?」客にそんな小言を言われるが、魔王に比べたらずっとマシだ。
二軒目は迷路みたいな路地の奥にある小さな一軒家だ。「持ってくるのが遅い!」こんなの、自動小銃を持った鬼のプレッシャーに比べたらなんてことはない。
もう密輸なんて二度としないぞ! エイイチはそう重ねて心に誓う。
舌打ちされても五百円。わざとらしくチェーンを下ろされても五百円。一時間で三軒回れば時給千五百円で稼ぐことができるんだ。たまにチップだってもらえるぞ。
そうやって、彼はランチタイムの仕事を終えた。今日も妹の面会に出向き、夜も汗水垂らして働いて、一日が終わった。
次の日も、その次の日も、彼は懸命に働き続けた。
理解不能なクレームをつけられても、タクシーに煽られても、クエストをこなすようにコツコツと、地道にカネを稼ぎ続けた。
あっという間に、数週間が経過した。
液晶が割れたままのスマホ片手に、レストランからマンション、コンビニからオフィスへと、エイイチは様々な食べ物を運び続けた。そのうちに異世界に行った記憶も薄れ、彼は再び平凡な日常を取り戻したかのように思われた。
しかし、
「お兄ちゃん最近また疲れてない?」
ある日、いつものように病院を訪れたエイイチに、ウメコが切り出した。彼女は相変わらずベッドに寝たきりで、以前より点滴の数が増えていた。ドラマとかで見るようなモニターまでも取り付けられているところを見ると、あまり調子は良くないのだろう。
「え? 全然そんなことないって。つかほらこれ、前食べたいって言ってたマカロン」
「うわっありがと。高くなかった?」
「全然、これくらい余裕だって」
「いやいやお兄ちゃん、そんなことないでしょ? いい加減自分のためにおカネ使いなって。私なんてどうせ死ぬん――」
そこまで言って突然、ウメコが激しく咳き込んだ。
モニターの心電図の波形が乱れ、アラームがけたたましく鳴り響いた。ウメコの白い肌が嘘みたいに真っ赤になって、彼女は可憐な顔をくしゃくしゃにして息を乱した。
「おい大丈夫か。つか死ぬとかそんなこと言うなよ!」
エイイチはウメコの手を強く握った。
「なぁ他になにが欲しい。カバンか? 時計か? なんだって買ってやる!」
「……だからいいって」
かたく閉じたウメコのまぶたの縁に大粒の涙が浮かんでいる。
「言えよ。なんでもいいから。大丈夫だって、俺宝くじ当たってカネならあるんだ」
そう言ってから、エイイチは後悔した。いつしか七万の貯金は半分以下になっていた。日々の細々とした支払いですり減っていたのだ。しかもまた月末、八月が終わろうとしている。今月の家賃を払ったらほとんどゼロになってしまう。
そんなふうに頬を引きつらせるエイイチの顔を、目を閉じたウメコは幸か不幸か見てはいなかった。数秒後、ウメコはゆっくりまぶたを開くと、かすれた声で言った。
「んーじゃあ、……yPadかな」
その目は赤く充血し息も絶え絶えであったが、彼女は必死に口角を上げて笑おうとしていた。絶対苦しいはずなのに、呼吸もままらないはずなのに、そんな彼女の健気さがエイイチには耐えられなかった。
「……最近スマホだと、ちょっと字が見にくいんだよね。……なんか、目の中にも炎症があるんだって」
「わかった!」
アラームを確認しにやってきた白縁メガネの主治医と入れ替わるように、エイイチは病室を飛び出した。スマホが震え、ウーパーの依頼が入るが無視をする。
マルパスのところに行こう。
エイイチは迷うことなく自転車に飛び乗った。二度と犯罪はしない、そんな決意が嘘のように、エイイチは一心不乱にペダルをこいだ。
もはや、ちまちま稼いでいるような余裕はなかった。一回五百円の配達料では新品のyPadまで果てなく遠い。だけど時の流れが遅い異世界なら、一日居たとしても一時間、つまり時給三十万。時給千五百円とは比べ物にならないのだ。
徐々に女神のマンションが見えてきた。
こうやって改めて見ると、それは富の象徴みたいな建物だった。周囲に立ち並ぶビルも相当な高さだが、それらより飛び抜けて背が高く、ギラギラと日光を反射し輝いていた。
ここに住むには月いくら掛かるのだろう、とエイイチは思う。低層階でも俺の年収以上かもしれない。なんなんだ。腹が立つ。浮世離れしすぎてる。まじで神の領域だ。
けれど今、俺には神とコネがある。
エイイチはマンションの前で自転車を乗り捨てた。鍵をかける手間すら惜しく、『10001』と入力し、呼び出しボタンを連打した。
ややあって、
「久しぶりだな少年――」
インターフォン越しにマルパスの声が聞こえてくると、エイイチは食い気味に口を開いた。
「早く。早くドアを開けてください!」
「せめてウーパーのふりくらいしたらどうだ?」
「……すみません」
「まぁいい。どうせまたカネが欲しいんだろ?」
「そうです」
「ははは、さては女だな?」
「違います! とにかく早く開けて下さい」
「……ふん」
そうして、エントランスの自動ドアが開かれた。
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