第7話 壁の薄さは犯罪の引き金となりえます
翌日、エイイチは朝一でATMに向かった。いまなお半信半疑だったが、十万円を病院の口座に振り込んではじめて、ことの重大さを実感できた。十万円! モニタに表示された数字を小声で読み上げると、舞い上がりそうなほど嬉しかった。
エイイチにはウメコという入院中の妹がいた。それが彼の唯一の家族だった。
数年前、エイイチ一家は無理心中を図った。車ごと崖から転落し、両親は即死、エイイチとウメコも怪我を負った。エイイチの傷は比較的軽かったものの、ウメコは重症であった。彼女は何度も手術を繰り返し、結果的に傷は治ったが、感染を起こして熱が出たり、リハビリが難航しうまく歩けなかったりと、どうもすっきりしないまま時間が流れ、依然退院できないでいるのだった。
今日もエイイチは昼休みのオフィス街でウーパーの仕事に励み、午後三時の面会時間ちょうどに病院へと向かう。
「あ、お兄ちゃん、今日はなんだか元気そうだね」
病室に入ると、ウメコが言った。
「なんだよそれ、病気のやつに言われるセリフじゃねーよ」
いつものようにベッドで横になっている彼女に、エイイチは答えた。
「んーじゃあ、もしかして彼女できた?」
「なっ、なんでそんなこと?」
「だって今日のお兄ちゃん、むっちゃニヤニヤしてんだもん。絶対イイことあったでしょ?」
「そ、そんなことないって」
「ほんとにぃー?」
「ほんとだって! あ、俺、また仕事入ったから行くわ」
エイイチは顔を赤らめながら病室を後にした。
ウメコの肌は雪のように白かった。点滴をつながれた左腕などは、その細さも相まって見ていられないほどだった。そんな彼女に気を遣わせるだなんて最悪だ、とエイイチは悔いた。そして十万を手にした喜びがそこまで顔に出てたのか、と自らの浅はかさを恥じた。
もちろん仕事が入ったというのも嘘であったが、もっと仕事しないとな、と彼は思った。十万程度で喜んじゃダメなのだ。
エイイチは病院を出ると、改めてウーパーのアプリをオンにする。
ウメコのために、もっとカネを稼ぐ必要があった。医療費が減免される制度を利用しても入院には色々と費用がかかり、金銭的にはかなり厳しい。多少滞納しても病院は待ってくれるのだが、延々と放置するわけにもいかず、十万を使ってもまだ足りない。それだけじゃない。エイイチの両親は多額の借金も残しており、その返済期限も迫っている。将来を見据え、ウメコが退院した際幸せに暮らすことまで考えると、稼いでも稼いでも稼ぎ足りなかった。
この日も夜遅くまで仕事して、エイイチはうら寂れたアパートに帰ってきた。ユニットバスで軽くシャワーを浴びて、そのままベッドへと倒れ込む。
一日中自転車を漕ぎ続けた足はパンパンで、炎天下のなか酷使した身体は冷水を浴びてもなお熱を帯びていた。全身が金属のように重だるく、芯からとろけてしまいそうで、泥のように眠れるはずだった。
だが、
「あんっ、あんっ、ふぅっ、くぅっー!」
隣の部屋から壁越しに聞こえてくる女の声に、またか、とエイイチは思った。
「あっ! いいいっっ! いやああぁぁあっ!」
そんな女の吐息に、薄い壁や天井がきしむ。どんな人物が住んでいるのか見たことはないが、毎日このくらいの時間になると、隣室からこんなあえぎ声が聞こえてくるのだった。
「いいいっ、うっ、うぁっ、やあぁぁっっん!」
これでは眠れない。
女が男を連れ込んでいるのか、もしくは男が女を連れ込んでいるのか。どちらでも構わないが、ちょっと静かにして欲しい、とエイイチは内心懇願する。彼に恋人はいない。忙しすぎてそんな余裕などないからだ。彼は別にそれを卑下しているわけでもなかったが、今はただ寝かせて欲しかった。
「はっ、あっ、あんっあんっあっ!」
しかしそんな思いは伝わらず、女のあえぎ声はどんどん速く、大きくなっていく。
加えて突然、ドンドンドン、と玄関のドアがノックされる。
ドンドンドンッ!
なんでインターフォンじゃなくてノックなんだ?
エイイチはこれも無視しようと思った。されど、ドンドンドン。アンアンアン。あえぎ声もノックも激しくなるばかりで、我慢できず飛び起きた。
手探りで電気をつける。ぱっと狭いワンルームに光が灯ると、ノックに合わせ台所で育てている豆苗がふるふると揺れていて、エイイチはわびしい気持ちになった。
いったい誰なんだ?
チェーンが下りていることを確認し、彼はおそるおそるドアを開けた。同時に、甲高い女の声がした。
「あのねあなた。こんな夜中にうるさいと思わないの!?」
ドアの隙間、チェーンの後ろから中を覗き込んでくるのは、アパートの大家であった。「あ、えとその……」と、まごつくエイイチを圧倒するように、大家はまくしたてる。
「人の迷惑っていうのがわからないの!?」
「えと、いやーあの……」
「アンアンアンアンうるさいって言ってるの!」
「あの、それは隣の人で……」
「何言ってんのよ。あんたが出てきたらぴたっと止まったじゃない。どうせいやらしい動画でも見てたんでしょ? あーいやだこれだから若い男は」
「そんなことは……」
と、エイイチは反論しようとしたが、たしかに隣室のあえぎ声は止まっている。
「うるさいうるさいって、アパートの皆さんからいっぱいいっぱーい苦情が来てるのよ。あなた家賃は払わないくせに動画を見るおカネはあるなんて一体どんな育て方をされたのかしら。今すぐ出てって欲しいのだけれど??」
「それは困ります」
「なら滞納している十万、さっさと払いなさいよ。今すぐ、ほら」
「いやそれは待って、あの妹の治療費が……」
「理由なんて聞いてません。すーぐに払ってちょうだい。こっちはね、出るとこ出たっていいんですよ?」
「わ、わかりました。でも明日、明日まで待ってください。明日中には払いますから!」
そう言って、エイイチは力ずくで扉を閉めた。
あんまりだ、と彼は思った。払いますと言ったはいいが、明日までに十万なんて大金用意できるわけがなかった。
他にも返済しなければいけないものがいっぱいあるのに、なぜ今なんだ? しかも十万、ウーパーのデリバリー二百回分だ。明日までなんて無理に決まっている。
彼は自らの不遇を恨んだ。マジでどうしようと絶望しかけたが、突如とある考えが頭に浮かんだ。
今なら簡単に十万稼ぐことができるじゃないか。
ドクン、とエイイチの心臓がひときわ強く収縮する。
いや、いったいなにを考えているんだ俺は。そのアイデアの危険さにエイイチは胸に右手を当てる。
待てアレはヤバい。またアレをやるのはヤバすぎる。
けれど、動悸は治まるどころが一段とひどくなる。一息ごとに呼吸が浅くなって、喉がひきつり指先がしびれ始める。とりあえず落ち着け、冷静になるんだと思っても、思考はぐるぐるループしてしまう。
そんななか、唐突に甘ったるいクールミントの清涼感が蘇り、エイイチは飛び上がった。慌てて流し台の蛇口を捻って顔を洗うも、あの独特な風味は消えてはくれず、頭のなかが真っ白になっていく。
気がつくと、財布から女神の名刺を取り出していた。
ヤバい、破いたほうがいい。そう思っても止められず、エイイチは取り出した名刺を両手で持ってじっと見た。
相変わらず手触りの良い紙質だった。つるつるとしたその表面から、スタイリッシュなフォントで書かれた『女神 マルパス』という文字がぼんやり浮かびあがってくるかのようで、不思議と気持ちが安らいだ。大丈夫だ絶対失敗なんてしない何度だって稼がせてやる、耳元でそう語りかけられるような心地もあって、もしかすると名刺には本当に女神の魔法がこめられているのかもしれない、そう思った。
やるしかない。
エイイチがそう決意するのに時間はかからなかった。
彼は脱ぎ捨ててあったジャージを羽織り、薄汚れたデリバリーバッグを肩に担いだ。ドアスコープで大家がいなくなったことを確認しアパートを飛び出すと、全力で自転車をこいで深夜の街を都心目指し駆け抜けた。
三十分ほどで、あのタワーマンションにたどり着く。
エイイチはインターフォンに『10001』と部屋番号を入力すると、勇ましく声を張り上げた。
「ウーパーです。よどやばし五郎持ってきました!」
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