第19話 決戦当日

携帯のアラームが部屋中に鳴り響いていた。しかし、頭は重く瞼が開けられない。もしや夢なのではと思ったが、下の階でかすかに聞こえる水の流れる音と、カチャカチャという食器の音が現実であることを教えてくれた。

それと同時に、徐々に脳みそが覚醒していく。

何でこんなにきついのだろうか。まさか寝返りを打つ間に起きる時間になってしまったのだろうか。

そんなことをぼんやり考えながら携帯で時間を確認したところで、ようやく得心がいった。

5時2分。そして、日付は7月9日となっている。

つまり、この不調とも言える状態は、目覚ましの時間がいつもより早かったことが原因だったのだ。

不安と緊張を抱えながら学ランに着替え、朝ごはんを食べるために下の階へ降りていく。すると、味噌のいい香りが鼻を通って空腹感を刺激してきた。こんな状態でもお腹は減るんだな。

「おはよう」

おはようと、母親の背中に向かって返事をした。

「それで足りる?」

わずかにこちらを振り返りながら聞いてきた。

僕は食卓に並んだご飯と卵焼き、ウインナーと味噌汁を見てから、大丈夫と答えた。

「そう?もし足りなかったら途中でなんか買って食べなね」

短く、うんとだけ返し、いただきますをしてから食事にありつく。

心の状態とは裏腹に体はエネルギーを欲しているようで、箸の進み方はいつもと変わらない。そればかりか、次から次へとものを掴んでは口の中へ放り込んでいく。

まるでこれからの戦いに備えようとしているかのように。

「ごめんね、今日、私仕事だから観に行けないわ」

別にいいよ。そもそも試合に出ないかもしれないし。

「1桁の背番号もらっておいて何言ってんの。レギュラーってことじゃないの?」

そうなんだけど、今でも何かの間違いじゃないのかって気がしてるんだよね。あと、別の意味があるとか。

「考えすぎ。いい番号もらってるんだからそれでいいじゃない。素直に受け止めなよ」

そりゃ受け止めたいけど、そんなに目立ってたわけじゃないし、特別上手いわけでもないから、僕じゃ役不足じゃないかなって。

「自分でも気付かない光るところがあったってことでしょ。見てくれる人は見てくれてるの。そんなネガティブだと力が発揮できないよ」

自分でも気付かないか・・・

結局、与えられた課題をクリアできないまま夏の予選が始まってしまった。

元々、正捕手としての番号を与えられたことにさえ不思議に思っていた。そこに、課題の未達成という問題が重くのしかかってきた。

もしかしたら、純粋な実力ではなく、期待感を込めての番号なのではないのか。

もしそうだとしたら、乗り越えられるだろうとされていた壁さえ突破することが出来なかった自分は期待を裏切ったことになる。

その程度の力で試合に出ても、果たして役に立てるのだろうか。

そんな思いが日を追うごとに強くなっていった。

あいつに少しでも追いつくことが出来ていたなら、この気持ちはもっと別のものになっていただろう。

あるいは、自分にもっと才能と呼べるものがあったのなら、楽しみに感じられたはずだ。

そこでふと思った。

才能という壁に直面したのはいったいいつのことだっただろうかと。

そもそも、何を以ってして才能と言うのだろうか。

「あんた時間大丈夫なの?」

その言葉に反応して時計を見ると、あと10分で家を出なければならない時間になっていた。

少し持っていた余裕を食い潰すくらいには考え込んでしまっていたようだ。

最近、色々あり過ぎてどうも調子が狂う。

ただ、嫌な気分になるわけではない。

いや、気が重かったり悩まされている状態ではあるが、これまでとは違う調子を楽しんでいるようだった。

けれど、何かが欠けている感じがした。

それが何かを考えようとしたところで、時間がなくなりつつあることを思い出した。

急いで箸を動かし、それからご馳走様を言って食卓をあとにした。

そして、そのスピード感を保ったまま身支度を整えて家を出た。

午前5時43分。

当初の時間より少し遅れてしまったが、自転車を速く漕げば充分巻き返せる。

こういう時、家から近い高校を選んでいて良かったと心底思う。

難点は、途中に大きな坂があること。

ここを自転車で登るのは中々に骨が折れる。

登りに差し掛かるタイミングでスピードを上げ、その勢いで登っていく。

そして、登りきったところである疑問が湧いた。

あれ、こんなにあっさり登れるものだっけ?

喉からは血の味がするし、息も切れている。

でも、なんだか拍子抜けというか、

いつもよりスピードが出ていたからだろうか。だとすれば、普段からあのくらいの力で漕げば、逆に楽ということか。

考えてみれば、今まで力を入れてあの坂を登ったことがない。

そう思った瞬間、強烈な何かを感じた。

「おはようございます」

後ろから声をかけられた。生駒ちゃんだった。

おはようと返すと、彼女は斜め下からいつもよりさらに見上げる形で僕の顔を覗き込んできた。

「何かいいことありました?」

いや、特に。強いて言えば、坂の傾斜が思ったよりキツくなかったってことかな。

「ああ、あの坂つらいですよね。なので、私は自転車を押しちゃいます」

なんか意外だな。坂の上から大したことないですねって言ってるものだと思ってた。

「男女の筋肉量はやっぱり違うんですよ。あと、実はメンタルも影響があるらしいですよ」

根性論ってやつ?

「もっと科学的なものです。ちゃんと調べたわけじゃないんですけど、脳の問題らしいです。例えば、いけるって思いながらバーベルを上げるのと、もう駄目だって思いながら上げるのとでは、上げられる重さに違いが出るそうです」

まさしく心体ってことだね。それにしても詳しいね。

「兄に教わっただけです。では、後ほど」

そう言って、バックネットの後ろにある監督室の方へ歩いていった。

僕が部室を開けると、既に5人いた。

みんな、どこか緊張した面持ちで、グローブの感触を確かめたり、携帯をいじったり各々の時間を過ごしている。

そこで改めて思い出す。

今日が、夏の大会の初戦の日なのだと。

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